黛敏郎電子音楽演奏会

京都に行ってきた。

黛敏郎電子音楽を集めたコンサートがあり、ここでの配布を目的に編纂された書籍に10000字ほどの評論を寄せた関係で、京都まで往復してきたのだ。

黛敏郎の電子音楽

黛敏郎の電子音楽

黛敏郎は、1950年代初頭、二年の予定のフランス留学を半分で切り上げ、帰国した途端に華々しい活躍を始めた作曲家。「涅槃交響曲」に代表される作品で戦後現代音楽界の寵児となる傍ら、膨大な本数の映画音楽を担当し(中には溝口健二川島雄三成瀬巳喜男中平康今村昌平熊井啓らの代表作、問題作らが含まれ、ハリウッドに招かれて担当した「天地創造」の音楽ではアカデミー賞にもノミネートされた)、越路吹雪エディット・ピアフの音楽を紹介するなど、芸能界にも幾ばくかの影響を残している。

当時の作曲学生の多くが彼にあこがれた。映画音楽の作曲で一本50万円ものギャラ(大卒事務職の初任給が1万円に満たなかった時代に、だ)を得、女優(桂木洋子)を妻に娶り、オーケストラを私的に雇って自作の発表を行った。松本清張の「砂の器」に登場する作曲家:和賀英良のモデルは、一説にはこの黛敏郎といわれている。

1970年代以降は、作曲の一線からは引き、テレビ朝日で「題名のない音楽会」の司会を務める傍ら、保守派の論客として知られていくことになる。

今日、最も知られる黛の作品といえば、コレだろう。

ある程度以上の年齢なら、この音楽を懐かしく思い出すかも知れない。

話を戻すと、このような人物の電子音楽作品を集めたコンサートを京都市立芸術大学の大学院生を中心としたグループJCMR Kyotoが企画し、この企画に責任者的な立場で加わった川崎弘二氏からの依頼で、ここで配布される書籍に文章を寄せることになったのだ。

京都へは深夜バスを使って出かけた。朝、会場についてみると仕込みの真っ最中であった。

詳しい説明は聞き損ねたが、黛敏郎電子音楽の多くはモノラルの作品であり、それを中央のスピーカーを使って再生し、写真の奥、壁に向かって置かれたスピーカーで残響をつけていたのだと思う。当日披露された黛の電子音楽のうち、3分の1強はモノラルで制作されているのだ。帰宅後、日本間でCD化されている幾つかの作品をスピーカー1本で再生してみたが、音の質感が全く違うことに衝撃をうけた。会場では特に変わった操作をしているように思わなかったのだが、比べて初めてわかるこの違い。自然な音場を苦心して作り上げていたということなのだろう。

公演前には川崎弘二氏によるプレトークが行われた。

川崎弘二氏は、(増補改訂版からは私も関わっているので、あまり大げさなことは言いたくないが、それでも)21世紀最初の10年で最も重要な音楽書のひとつである「日本の電子音楽」の編著者でもある。

日本の電子音楽

日本の電子音楽

全17曲、総演奏時間4時間超に及ぶ作品を2部構成、雑音を減らすために空調を止めた中聴くという体育会系のイベントだった。そんなイベントにこれだけの人たちが集まったというのは驚愕。この人たちが読む用と鑑賞する用と保存用に3冊本を買えばいいのに。。。

総じて、若い人たちのやる気を感じる良いコンサートだった。JCMR Kyotoに感謝と拍手を。1月8日に川崎弘二、有馬純寿とともに共催する篠原眞電子音楽コンサート@門仲天井ホールは、もっと良いコンサートにしたいもの。関東勢としても負けてられないからね。

追記:

この後に、黛敏郎電子音楽CDリストを付記する予定だったのだが、何れもamazonでの取り扱いがないらしく、CDのタイトルのみを取り急ぎ列記する。

「ミュージック・コンクレートのためのX・Y・Z」(1953)
→「日本の作曲 21世紀へのあゆみ vol.7」(同名のコンサート・シリーズの記録録音。現在品切れ)

素数の比系列による正弦波の音楽」(1955)
素数の比系列による変調波の音楽」(1955)
「鋸歯状波と矩形波によるインヴェンション」(1955)
→「音の始源を求めて 塩谷宏の仕事」

「七のヴァリエーション」(1956)
→「音の始源を求めて 塩谷宏の仕事」

電子的音響による音楽的造形「葵上」(1957)
→「音の始源を求めて8 稲村・徳尾野・佐々木・大津の仕事」

ミュージック・コンクレートによる「カンパノロジー」(1959)
→「音の始源を求めて6 西畑・塩谷・高柳の仕事」

「カンパノロジー・オリンピカ」(1964)
→「音の始源を求めて 塩谷宏の仕事」

マルチ・ピアノのための「カンパノロジー」(1967)
→「音の始源を求めて2 佐藤茂の仕事」

電子音響と声のための「まんだら」(1969)
→「音の始源を求めて3 佐藤茂の仕事2」