伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」

豊田亨は、1995年3月20日中目黒駅7:59発の東武動物公園行きの営団地下鉄(当時)日比谷線へ乗車し、恵比寿駅にてサリンを散布、その結果1名を死に至らしめ、532人に重傷を負わせた、世に言う「地下鉄サリン事件」の実行犯の一人である。2000年、死刑判決。2004年、控訴棄却(弁護側は最高裁へ上告中)。「犯罪から最も遠いところにいたはずの男」というのが、大学同級生による豊田評であった。
第4回開高健ノンフィクション賞を受賞した本書では、作曲家で東京大学助教授をつとめる著者:伊東乾(いとうけん)が、東大理学部物理学科時代の友人であった豊田亨との交友を回想する。同窓の二人の学生生活とその後の経歴を丹念に比較するならば、自分と友人との命運を分けた「何か」の正体が露にされ、マインド・コントロールの危険に警鐘を鳴らすことだって出来るだろう。
しかし、残念なことに、その意図が十分に実現されたとはとても言えまい。まず、伊東自身についての記述が他を圧倒しており、著しくバランスを欠いているし、その他の記述もかなり雑である。例えば、本書に所々で顔を出す奇妙な謎解き部分。伊東と十代の女子大生が上九一色村を取材してサティアンの立地についてある推理を披瀝したり、豊田亨修士論文をともに検証したりする箇所がそれで、この部分については、大学助教授と学部生が活躍する森博嗣の小説シリーズを読むかのようだ。確かに、このことが本書を読みやすいものとしているのは事実で、開高健ノンフィクション賞の講評に於いても、この点を高く評価する声があるのだが、私にはどう好意的に見ても美点とは捉え難いように思える。
まず、この本には、科学者の手によるものとは思えない論理的飛躍が散見されるが、その殆どがこの謎解き部分に含まれている(例えば、出家時の状況から豊田の出家をむしろ拉致に近いものではないか、と推理する下りがあるが、後の記述では「出家=拉致」とあたかも既成事実であるかのように扱ってしまっていること。また、赤外線脳血流可視化システムを使用し、恐怖によるマインド・コントロールの存在を実証する箇所でも、定量的な議論は一切行われていないこと、など)。論文としてまとめるにはお粗末過ぎる推論も、こうした推理小説的な謎解きとして披露するなら目立たないということか。これが島田荘司のミステリーなら笑って済ませられるが、ノンフィクション、それも著者=伊東の友人の命がかかった書物で目にするとなると複雑である。
さらには、この(恐らく架空の)女子大生のリアクションを通じて、豊田への同情を−極めて安易に−求めるような記述がある。例えば、この女子大生が「・・・豊田さん何だかかわいそう・・・」とうつむいてしまう箇所(219ページ)などは、その最たるものだろう。持論を積み上げることで読者の感情を揺り動かすことは難しいが、自らと架空の登場人物との対話を設定して、この架空の登場人物に自分の意図通りの反応をさせるなら、読者の感情を操作することはそう難しいことではない。
お笑い番組の制作で収録後に「スタッフの笑い声」を足す作業も同じ意図から行われているものだし、ドラマ「のだめカンタービレ」で「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏するオーケストラを観た主人公(の一人)が、「カッコイイじゃないか」と呟けば、実状はどうあれ無批判に観ている人間の多くは「カッコイイ」のだと好意的に評価する。さらには、行政が国民に対して同様のトリックを仕掛けることすら、昨今珍しいことではない。
つまり、本書はメディアによるマインド・コントロールの危険に警鐘を鳴らしつつ、読者に対してマインド・コントロールを仕掛けているのだ。もちろんこれは著者が読者に提供する「練習問題」の如きものではなく、本書が抱える矛盾と評価すべきだろう。この矛盾がこの本の最大の欠点であることは言うまでもない。伊東は結論として、「普通の学生がこうした未曾有の化学テロに行うに至った経緯を教訓として残すために、豊田は一人責任を取って死ぬべきではないし、司法も豊田を死刑にするべきではない」、と主張する。が、しかし、このような矛盾に満ちた小細工を内包する書物で、実行犯に極刑を望む遺族はもちろん、自らを断罪し死刑を覚悟する豊田も説得出来るわけがなかろう。必要なのは、相手の感情を慮りつつの繰り返しの説得に耐えられる、小細工の無いより稠密な論理ではないか。
しかしながら、メディアによるマインド・コントロールの危険について広く世間に警鐘を鳴らした点については一定の評価がなされるべきだし、本書に登場する幾人かのビッグネームの話は示唆に富むものだ。科学的な検証はより慎重な科学者による追試を待つとして、オウム以後のメディアと私たちとの関係を再考する際に批判的に読まれるならば、十分に価値のある書籍だと言えるだろう。

さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生

さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生