『憂鬱と官能を教えた学校 【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史』

8年前の今頃、京橋にある映画美学校の『商業音楽理論史』という講座に通っていた。講師の菊地成孔は、当時デートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(DCPRG)という、電化マイルスの展開系ともいえる大編成のポリリズムジャズファンク・ユニットを主催していて、その辺りに興味をもっていた私は生徒として潜り込んだのだった。

映画の専門学校における、いわゆる一般向けの講座ではあったとはいえ、こうした講座に集まってくるのはかなりコアな連中で、ここでの付き合いがどれほど自分にとっての刺激になったかは計り知れない。講義の内容よりも、その方が重要ではなかったかとすら思えるほどだ(ちなみに、この講座で知り合った某氏が今度結婚することになり、結婚披露パーティの幹事と司会を引き受けることになった。また、その講座の校長であった岸野雄一さんには、昨年一昨年と拙企画の「101年目からの松平頼則」のお手伝いを頂いた。そういう具合に、美学校関係者や受講生の何人かとのお付き合いは、今でも続いている)。

この講義が行われた2002年の私はといえば、柴田南雄音楽評論賞の奨励賞を頂く前で、音楽評論を本格的に始める以前の状態にあった。だが、講義が進む中でこの講義のまとめとして出版される書籍に、私も一本論考を要請されるに至った。結局、本の出版は諸々あって2年後までズレ込んでしまったわけだが、何の実績もなかった当時の私に、菊地氏がこの論考を依頼したという事実については、特筆しておきたい。

論考の題名は「標柱」とした。これは、菊地氏が相当の現代音楽愛好家で、当時DCPRGで「構造」と題した連作を発表していたことによる。言うまでもなく、この題名の由来の一つにブーレーズがある(私が当時所持していたブーレーズの音源の殆どは、菊地氏に貸したままになっており、おそらく氏の歌舞伎町、ではなく自由が丘の自宅にあるのだと思う)。だから私もブーレーズの論考の題名に従った。

「標柱」の内容はといえば、基本的にポピュラー音楽理論史の創生期の諸々についてなのだが、あらゆる音楽家、音楽愛好家に読んでもらいたい箇所も中にはある。

歴史は、バークリー・メソッドに限らず、全ての音楽理論が万能ではないことを語る。(中略)そう、確かに理論には限界がある。しかしながら、理論が必要不可欠なものであることを示しているのも歴史である。ガーシュインが理論に助けを求めたことからもわかるように、頼るべき標柱を持たずして、自らの創造性を余さず発揮できる例は少ない。皆無と言って良いかもしれない。音楽理論とは世界認識のツールでもある。誰も、上下左右すら曖昧模糊とした世界では確信を持って動くことができず、蜘蛛の巣のように理論の糸を張り巡らせ、そのネットワークの上を自在に運動することによって初めて、自分の表現を生み出していくことが可能となる。ただしそれは、張り巡らされた糸に絡め取られる危険と背中合わせのものであるし、自らが進み得る領域を知らず知らずのうちに限定してしまうことでもある。われわれは音楽理論が持つ効用と副作用に自覚的でなければならない。

この辺りについては、今なお自分が批評を書く際の指針となっているし、そうした相対化の視点がない人がまかり間違って偉くなってしまっているところに、日本の音楽界のダメな点があるように思うのだが。

というわけで、この論考を上巻の末尾に収録した、文庫版の『憂鬱と官能を教えた学校 【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史』(菊地成孔大谷能生河出書房新社)が、本日発売される。是非、お手に取ってみていただきたい。

日本の電子音楽

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講義のアシスタントを務め、語り口調の講義を書籍化にあたって全面的にリライトした大谷能生氏とは、後にこの本でご一緒することになる。