楽曲分析の講座を始めます

BUNCADEMYで、楽曲分析の講座を担当することになりました。


BUNCADEMYとは、フェルドマン研究で博士号を取得した、お茶の水女子大研究員の沈孝静さんが代表をつとめる、新しいタイプの文化芸術講座&語学講座を行う教室。学芸大学駅近くのマンションの一室にオープンしたばかりの施設です。


9月21日、近藤譲氏がケージとフェルドマンについて語った場所、というとピンとくる方もいらっしゃるかと。


先月のサントリーサマフェスの会場で、ここの手伝いをされているHさんから、「BUNCADEMYで近藤先生が音楽美学系の講座をやるから、石塚さんには楽曲分析を」と依頼され、正直「ちょっと待ってくれよ」と思ったわけですが(というのも、音楽分析家として近藤譲以上にリスペクトしている人物が、世界的にも私には皆無なもので)、私が過去に執筆したものを検討した上での依頼だったことと、「松平頼暁松平頼則湯浅譲二」の三氏については、世界の誰とも異なったスタンスでの分析が行えるような気がしましたので、お引き受けすることに致しました。


当初は、一人の作曲家について一回(1時間半+質疑応答)という形で開催する予定でしたが、音源を聴く時間などを考えると、一人の作曲家に二回充てるべきだ、ということになり、まず、松平頼暁氏の作品分析を、11月15日、12月6日の二日に亘って行うことに致しました(年末の家業繁忙期や、年明けにあるイベントに出演する事情などもあり、3回目以降は来年の開催になる予定です)。


「洪水」13号に載っている話が基本になりますが、管弦楽曲に限らず、いろいろと楽曲を検討していく予定です。11月15日が、ピッチインターヴァル技法導入以前、12月6日が導入以後の楽曲についての分析となります。両日とも14時開始で16時頃まで。


どれだけの方が、ピッチ・インターヴァル技法に興味をお持ちなのかは正直わかりません。これを学んで「二流の松平頼暁」になっても仕方ないですしね。ただ、一流の作曲家がどのようなシステムによって創作を行っているのか、ということを知るのには大きな意味があると私は考えます。某書評にも書きましたが、人間、感覚のみに頼って創作を行っても、安易なステレオタイプへと堕ちることが殆どで、そうそう面白いものは出来ません。というわけで、80歳を超えた松平頼暁氏の創作の、驚異的な若々しさを支えるシステムについて知ることは、今後、創作の道へと進もうという若い作曲学生にとっても、必ずや有益なこととなるはずです。


ちなみに音楽理論や方法論一般についての私の考え方は、以下の小論をお読みになればわかるかと思います。

そう、確かに理論には限界がある。しかしながら、歴史は理論が必要不可欠なものであることを示してもいる。ガーシュインが理論に助けを求めたことからもわかるように、頼るべき標柱を持たずして、自らの創造性を余さず発揮できる例は少ない。皆無と言って良いかもしれない。音楽理論とは世界認識のツールでもある。誰も、上下左右すら曖昧模糊とした世界では確信を持って動くことができず、蜘蛛の巣のように理論の糸を張り巡らせ、そのネットワークの上を自在に運動することによって初めて、自分の表現を生み出していくことが可能となる。ただしそれは、張り巡らせた糸に絡め取られる危険と背中合わせのものであるし、自らが進み得る領域を知らず知らずのうちに限定してしまうことでもある。われわれは音楽理論が持つ効用と副作用に自覚的でなければならない。バークリー・メソッドを学ぶのは、「二流のマイルス・デイヴィス」になるためではないのだから。自らが求める表現がバークリー・メソッドの外にあるものならば、新たに理論体系を作り出す必要だってあるはずだ。「標柱 シリンガーとバークリーの理論を巡って」(「憂鬱と官能を教えた学校」菊地成孔大谷能生著、河出書房新社、所収)


総音列技法について、ある作曲家は「才能のないものでも音楽が作れるシステム」と嘯いた。だが、それは大きな間違いだ。総音列技法に限らず、システムとはある程度までの作品の質を保証してくれるかも知れないが、それを運用するものの知性や才能を、無慈悲なほどに露にしてしまうものでもある。これについては、総音列技法も、パリ音楽院仕込みのエクリチュールも、芸大和声も、バークリー・メソッドも変わらない。ただ一つ確かなことは、どのような高度なシステム/技法であれ、それを無批判に信奉してしまう者には、霊感は決して降りてこない、ということだ。(「松平頼暁のための祝詞」大井浩明POC#5 2011/1/29 プログラムノート

ということですので、多くの方々のご参加をお待ちしております。詳しいことは、そのうちFacebookのイベントページが出来るでしょうから、そちらにて。

洪水13号

洪水13号