亡きラザール・ベルマンのための

 去る2月6日に亡くなったピアニスト:ラザール(ラザリ)・ベルマンの思い出。
 ベルマンが演奏する「超絶技巧練習曲」(F・リスト)のCDを貸してくれたのは、確か、予備校時代の同級生だったと思う。それまでボレットのCDを聴いてそれなりに満足していた私は、まず、その全曲を1時間程で演奏するテンポ設定に仰天し、そして、演奏の隅々にまで行き届いた生気に圧倒されたのだった。
 その後、「超絶」の中の幾つかを気ままにピアノで弾いてみたりなどしたが、その度に「3度生まれ変わってもベルマンみたいには弾けないな」と思ったりなどしていたものだ。

 さて、時は過ぎ、そのベルマンにただ一度会う機会が訪れた。
 それは、私が将来オンガクヒヒョーなんてものに関わるとは夢想だにしない頃の話(同様に、神職をやるということも全く頭になかったわけで、全く人生はどう転ぶかわからないもの)。当時、私は学生オケ時代の友人のつてで、オーケストラやバレエの舞台セッティングのアルバイトに、不定期で入ったり入らなかったりという生活を続けていたのだった。大学を卒業して大学院に通っていた頃だと思う。で、ある日、ベルマンが客演する演奏会のセッティングに出向くことになったわけだ。
 私たちを雇っていた音楽事務所はなかなかに鷹揚なところで、アルバイトがソリストに声をかけることを厳しく禁止したりなどしなかった。実際、そのアルバイトを続ける中で、リチャード・ストルツマンに握手してもらったり、ミルヴァと話をしたり、と、まあ、そういうことが日常的にあり、会場でベルマンに会って少しでも話が出来る可能性は、実は相当に高かったのだ。
 ストルツマンに会ったとき、自宅に何枚も彼のCDを架蔵しているにも関わらず、何も持たずにアルバイトへと出かけたことを後悔した私は、その日、春秋社版の「超絶技巧練習曲」の譜面をもってアルバイト先である東京文化会館へと出かけていった。下手くそながらも必死にピアノをさらっていた頃だったから、サインをもらうのはCDではなく、リストの譜面でなくてはならなかった。当時は、思い出すのも恥ずかしい程のミーハークラシックファンだったのだ。
 プログラムは、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」、但し原典版での演奏だった。その他の曲目については記憶に無い。当日、私はドアボーイも兼ねていて、ホール外で接客に当たることになっていた。ゆえに、残念なことだが演奏については何も語れない。ただ、リハーサルにて、序奏の雄大な和音をアルペッジョで弾く(原典版だから)ベルマンの姿をみることだけは出来た。
 さて、終演後。セッティングとは違い、片付けにはそう時間がかかるわけではない。仕事を一通り終えた私は、楽屋前で未だ立ち話をしているベルマンを発見することになる。一応、私の雇い主である音楽事務所の方にサインを頂く許可をもらい、ベルマンの前へ進み出、震える声でサインをお願いした。
 ベルマンは快く応えてくれ、私の譜面を手に取り、ペンを走らすと同時にこんな話をしてくれた。
 かつて、ストラヴィンスキーが指揮をした演奏会でのこと。演奏会に感激した作曲学生が、一人ストラヴィンスキーにサインを願い出た。手には、ベートーヴェンピアノソナタ集。彼は自分がアナリーゼしている譜面に憧れの作曲家のサインをもらうことで、自分の作曲家人生の護符のようなものとしたかったのかも知れない。
 ストラヴィンスキーは快くサインをし、作曲学生はその様を興奮の面持ちで眺めていたとのこと。しかしながら、短い会見の後、彼が譜面に目を落してみると、そこには「L.v.Beethoven」の文字が!
 この話を聞き、私は慌ててベルマンの手元を見つめたものだ。
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 裏表紙に「L.Berman」と大書きされた「超絶技巧練習曲」の譜面を、私は今も自宅のピアノの上に大切に保存している。