ガレリアウィンドオーケストラ第4回定期演奏会

18日
午後2時
彩の国さいたま芸術劇場大ホール
ガレリアウインドオーケストラの第4回定期演奏会へ出かけてきた。
この、さいたま芸術劇場大ホールはカンバセーション社御用達の日本コンテンポラリーダンス公演のメッカで、他には主に演劇公演に使用される会場。満席時1.4秒という残響が、演奏にどう作用するかも興味深いところだろう。プログラムは、
藤掛廣幸(1949- )/シャコンヌ (1976)
須賀田礒太郎(1907-1952)/台湾民謡に依る舞踏曲《八月十五夜》(1943)
新実徳英(1947- )/水の嬉遊曲 (1985)
戸田 有里子(1982- )/−小天地−(2005)
伊左治直(1968- )/夕焼けリバースJB急行〜ハイドン・ヴァリエーション・メタモルフォーゼ (2004)
平石博一(1948- )/水を抜けて (2000/2006)
アンコール
中橋愛生(1978- )/コンセルト・マーチ「シンタックス・エラー」(2004)

須賀田、新実、伊左治、平石各氏の作品を興味深く聴いた。
須賀田作品は、作品自体はニ調(in D)なのに、冒頭からE音を含む和音が鳴らされ(9の和音)、サックスやオーボエによって歌われるゆったりとした台湾民謡が、この和音によって裁断されていく様が(同時に鳴らされる打楽器の使用法もあって)面白い。いわゆる民謡系の吹奏楽曲は数多いが、こうしたキラリと光るアイディアを持つ作品が1943年の段階で書かれていたことは驚きである。
新実作品は、新実版「モルダウ」というか、吹奏楽版「筑後川」というか、まあ、そういう性格の作品。初演は中高生による100人単位の大編成バンドだったというが、最後のニ長調の和音が中高生100人の吹奏楽団によって演奏された様を想像するだけで眩暈がしてしまう。 今回の演奏では、オリジナルの編成を尊重した30人ほどの編成で演奏されたが、残響の少ない会場ゆえの負荷が最も目立ってしまったのがこの作品だった。各音の定位は明確になったものの、残響によるフォローがきかず、ノーメイクでハイヴィジョンカメラの前に立つような恐怖の中での演奏。
伊左治作品は、JB(Johannes Brahms)のハイドン・ヴァリエーションを原型を留めないまでに切り刻んで、更に徹底的に変容を加え、まるで電車の車輛を連結するかのように繋いでみた作品。個々の要素は調性的だが、要素が目まぐるしく入れ替わるため、作曲者のいう「無調」へと近づいていく。途中、サックスとトランペットにスタンドプレイが指示されたジャズファンク的な箇所があるが、これはもう一人のJB(James Brown)への目配せなのだろうか?この二人のJBは丁度100年(1833-1933)離れてこの世に生を受けている。
平石作品は、所謂ミニマル風な短い音型で埋め尽くされており、それらが相互に干渉して新しいパターンを作りつつその姿を変えていく。特筆すべきは、その背後で伸ばし音を中心にした音色/和声の推移という別のプロセスも用意されていることで、これと前景のミニマル的意匠を組合せることによって、より重層的な構造が作り出されている。
作中に仕掛けられたズレの効果を明確にするために、演奏にはよりキレがあった方が良いと思うが、それをこの団体に求めるのは、あまりに厳しい注文であるようにも思う。ふと、同じ会場で公演を行なったスティーヴ・ライヒのアンサンブルが、既に何度となく公演へかけた楽曲を、リハ室に籠もって何日も繰り返し練習していたという逸話を思い出した。ミニマル演奏の道は厳しく遠い。
で、会場の残響の件についてであるが、残響が整理されたことで音の定位が明確になり、特に平石作品のような作品で空間的な重層性が明確になった、というのは良し。しかし、反響板を欠いた会場ゆえ、音がステージ上へと籠もり、客席へと出てこないという欠点があった。
フル編成の吹奏楽が残響2秒の通常のコンサートホールで演奏するとき、残響過多で音が混沌としてくることを考えると、今回のようなドライな残響のホールはかえって向いているようにも思うが、それは反響板のような基礎的設備があってのこと。吹奏楽のようなクラシックの歴史の中心から離れたジャンルにあっては、演奏会場を探すのも一苦労だと痛感させられたコンサートであった。