クァルテット・エクセルシオの武満、そしてクセナキス

6日 19:15 第一生命ホール

武満徹:「ランドスケープ?」
クセナキス:「テトラ」
武満徹:「ア・ウェイ・アローン」
クセナキス:「テトラス」
武満徹:「アントゥル=タン」(Ob.古部賢一)
1994年、桐朋学園の学生で結成され、日本では数少ない常設の弦楽4重奏団として活動を続けるクァルテット・エクセルシオが、武満&クセナキスプログラムで演奏会を行うという。クセナキスという作曲家に私淑する筆者としては、「テトラス」が演奏されるならば放っておくことは出来ず、勝鬨橋を渡って第一生命ホールまで出かけてきたという次第。このコンサートは、トリトン・アーツ・ネットワークが第一生命ホールで行っている「クァルテット・ウェンズデイ」 シリーズの一環であり、ここでの彼らのコンサートは「ラボ・エクセルシオ」と銘打たれ、定期演奏会よりコアなレパートリーを披露する場ともなっている。
さて、この「ラボ・エクセルシオ」、前回まで「クァルテット・世界めぐり」と題して世界各地の弦楽4重奏曲を取り上げていたが、今年から「20世紀、日本と世界」なる新シリーズをはじめるとのこと。
このプログラムにおいて、武満とクセナキス、どちらをメインに据えるかは、クァルテットの音楽的スタンスを如実にあらわすだろう。確かに、武満を選択した者らしい音風景が、良かれ悪かれそこには広がっていたといえる。
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より伝統的な作品、具体的には武満の2曲「ア・ウェイ・アローン」「アントゥル=タン」の演奏は申し分ないもの。後期の武満作品に共通する(それは「系図」のような作品においてさえ!)細部の書き込みの見事さには敬服する他ない。小さな波が次々に連なり、音色を自在に変化させつつ次第に大きなクライマックスを形成していく。この波濤の一つ一つを丁寧に磨き上げ、十分に考えられたバランス鳴らすまでに浚い込む生真面目さこそが、この団体の身上といえる。素晴らしい。この方向でさらに研鑽いただき、三善晃の弦楽4重奏曲全集にデュティユ(「夜はかくのごとく」)など加えてリリースしてもらいたいものだ。
しかしながら、作品が西欧音楽の本流から外れたものになると、その真面目さが必ずしも結果に結びつくとは限らない。「ランドスケープI」では、後の「地平線のドーリア」を予見させる、あまりに厳しくスキマの多い譜面に戸惑うところが多いようで、曲に不釣合いな「しな」をつけてしまう箇所が散見される。アメリ実験音楽を消化していたならば、単にヴィブラートをかけないというだけではなく、音そのものを置いていくような表現にも耐えられただろうに(ゆえに「クァルテット・世界めぐり」にアメリカが含まれていないのは偶然ではないのだろう。アメリカにも、アイヴズやケージやフェルドマンという音楽史に残るであろう素晴らしい作品があるのだが)。バランスを含めた音響/音色の構成は、武満の他2曲に劣らず見事だったのだけれども。
クセナキス、特に「テトラ」にはさらに問題が。まず音圧が全く不足している上に、この異星人の作品をどうにかして「音楽的」に表現しようと墓穴を掘っているところがある。ゆえにクセナキスのテープ音楽を聴いている耳からすれば、あまりに「西欧音楽の伝統」という重力に心引かれたアーティキュレーションがそこここに。クセナキスの作風に強烈なオリジナリティを認めるならば、それを伝統的なマナーに引き寄せて表現するのではなく、クセナキス独自の表現を目指すべきではないのか?ゆえに、総じて表現が微温的になり、全てが奇麗事に終わってしまったのが惜しまれる。
「テトラス」の演奏は「テトラ」に比べれば優れたもの。ただし、特殊奏法と通常奏法が入り混じる箇所で音楽が停滞し、この作品の魅力であるドライブ感に欠けていたことは指摘しておかなくてはならない。このドライブ感が聴くものを巻き込まないのならば、クセナキスの作品は特殊奏法の見本市のようなものへと矮小化されてしまう。グリッサンドにおける細かな音色の指定などをよく守っており、複雑怪奇な譜面を誠実に音にしようという、演奏者の真面目な取り組みようは良くわかったのだが。。。。