武満徹作曲賞(審査員:スティーヴ・ライヒ)雑感

5/25 16:00 オペラシティコンサートホール

■ ダミアン・バーベラー(オーストラリア・男性) God in the Machine
■ トーマス・バレイロ(メキシコ・男性) La Noche de Takemitsu

■ 松本 祐一*(日本・男性)広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?
■ 中谷 通 (日本・男性) 16_1/32_1
*祐は示す偏に右 → 示右
中川賢一指揮:アンサンブル・ノマド
音響:有馬純寿 & ふぉるく
審査員:スティーヴ・ライヒ
 武満賞といえば、オペラシティの現代音楽祭:コンポージアムの一環として行われる作曲コンクールで、音楽祭のテーマ作曲家が一人で予備選考から本選まで全ての責任を負って審査するユニークネスによって知られる。ゆえに、時には審査の内容がしばしば審査員の作品以上にその音楽観や姿勢を露わにしてしまう恐ろしい場となるわけだが、今回の選考においては、ライヒでなければまず本選に残さなかったであろう作品が幾つか含まれていたということで、審査員の面目は保たれたといえると思う。
 オペラシティのHPには、既にライヒが授賞式で喋った講評なども載っているのだが、PAや電子楽器、サンプラーターンテーブルの使用も可能な室内合奏という特殊な編成、スコアだけでなくデモ音源の提出も義務付ける、という極めて特殊な公募形態ゆえ、参考のため募集要項も併せて載せておいて頂ければより良いと思う。
 さて、スティーブ・ライヒという当代随一の人気作曲家が審査をするにも関わらず、随分と応募数が減ったのは、やはりこの特殊な応募条件が影響しているのだと思う。確かにこの条件では、どこか別のコンクールへ応募予定だった作品をとりあえずエントリーする、というわけにはいかない。しかしながら、この機会を逃すまいという渾身の作品ばかりが集まったわけでもなかった、というのが、本選を聴いての正直な感想なのだが。
 順にコメントしていっても良いのだが、前半2曲については特別な感想はない。曲がりなりにもDeus ex machinaがテーマとなるならば、機械仕掛けによる様々な音現象はより本質的に音楽の形式/展開へと干渉すべき、だとか、エレキギターが2本入っているだけで、武満やドビュッシーの引用を披瀝されても今更感は拭い切れない、とか、不満を言い始めれば幾らでも出てくるのであるが、強いて言うなら1曲目の方によりユニークな音響が聴かれた。
 さて、会場ロビーに展示されてあったスコアを読んだときから、受賞は二人の日本人のどちらかに間違いないと予想していたが、実演にどれだけ作曲者の思考を反映させられるかで、明暗がわかれたように思う。
 松本作品は、アンケート・アートと銘打ち、アンケートの質問とそれに対する答えを音楽へと変換していく作品。例えば、「未だに答えが出せない」という一文を品詞分解するなら、「未だに 答え が 出せ ない」と分けることが出来るだろう。その上で、「未だに」は副詞で、「答え」は名詞・・・と分類することが可能で、この品詞の属性ごとに音高(というか和音:シリアスなアンケートの内容に反してこれが随分と明るい)が割り当てていくのが作品の中核をなすコンセプト。さらに、その持続は個々の品詞の文字数によって決められていく(たとえば、文字数が4文字なら持続は8分音符4つ分となる)。
 特筆すべきことは、これを英語に翻訳した上でも同様のプロセスが用意されており、「Even now I can’t give an answer」からも、別の音高と持続が決定されるところ。翻訳することによって、音高の出現順もその持続も変化するというのがポイントである。これらが、コンピューターで合成されたアンケート内容の朗読を伴って、四分音符=120のビートに乗って淡々と進んでいく。
 さらに、この作品の巧みさは、上述のコンセプトだけでなく、全曲を3つのフェーズへと分割した構成にある。曲のはじめでは、日本語によるアンケートによる部分と、英語によるそれが交互に進行し、聴く者に作品を形成する奇妙なプロセスそのものを理解させようとする。そのまま曲が進むのかと思いきや、2度の橋渡し部分(音高定義の組み換え)を挟んで音楽の推移が細分化され、最後には日本語部分と英語部分が同時進行、音楽は一気に多層化される。
 また、アンケートの質問/回答の並びも工夫することで、情報量において疎から密へという構成が出来、音楽が単調に陥ることが避けられ、フェーズの変化の説得力も増した。持続を形成するコンセプトは全く異なるが、師の三輪眞弘の芥川作曲賞受賞曲:「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」に似た感触。アンケートの回答が全て音楽化されると同時に、否応無く作品は終わる。
 中谷作品は、ピッチと律動の周期を一つの系列から導き出して相互に関連付けようという意欲作。1日=24時間=1440分=86400秒を一つの周期とすると、その17オクターブ上(オクターブが一つ上がるごとに周期は半分になる)の周期は、86400秒を2の17乗で割ったもの=0.659秒となる。これを基準テンポとすると、これは大体1分間に91回入る計算になるので、一拍=91とテンポ設定すれば良い。同じく、25オクターブ上は、86400秒を2の25乗で割ったもの=0.00257秒となる、これは1秒間に389回入り、これを振動数と見立てると389ヘルツというピッチ(音程)が設定できる。
 この系列を駆使して自然倍音列の高次の音程を律動の周期と相関させようというわけで、スコアについては実に興味深く見、音を聴くのを楽しみにしていたという次第。しかしながら、こうした非伝統的な調律を伝統楽器のアンサンブルにて行う際には、無理が出ることは必定で、実際に奏でられた音楽はスコアほど美しいものではなかった。
 そもそも、弦楽器にしても金管楽器にしても、一度調律すればそれが持続するようなものではないし(長時間弾いていれば弦楽器の弦は緩んで音程は下がるし、菅の長さを変えてチューニングしても、それ以上に唇の状態一つで音程を変えられる/変わってしまうのが金管楽器だ)、クラシックな音律の中で活動してきた奏者は、経験豊富であればあるほど、「合わせよう」としてしまうのが現実。
 例えば、ピタゴラスの3度は振動数比64:81の「不協和音程」であるが、これを敢えて演奏させようとチューニングしても、実際には振動数比4:5=64:80の長三度音程を志向してしまうのが演奏者というもの。ゆえに、チューニングでのプリセットが唯一の音程的参照点であるこの作品の演奏においては、奏者は曲の途中で「作品が求める正しい音程」を知りえない/補正し得ない、という欠陥があり、この欠陥が作品を一貫していたはずのコンセプトを溶解してしまった。
 ジェームズ・テニーがその早すぎた晩年に、B音の自然倍音列上にある整数次倍音を第60次に至るまで使用する作品「Diapason」を作曲しているが、こうした作品においてはもう少し作品を「正しく演奏」するための工夫があったように思う。
 結果は、1位:松本、2位:バレイロ、3位、バーベラー・中谷、ということになったが、2位3位はともかく1位については順当といえると思う。委嘱を全く受けられたかった無名時代から自身のアンサンブルを組織し、「18人の音楽家のための音楽」のような至難な楽曲を演奏させていた、コテコテの現場主義者であるライヒが中谷作品を評価しなかったのはある意味当然で、中谷には自身のアイディアを音として確実に実現するための方策を見つけ出した上(別に奏者がi-podでガイドを聴きながら演奏しても良いわけだし)で、リベンジして頂きたいと思う。その過程で、楽器用法の習熟という課題もまた明らかになってくるだろう。