水から救出されたアーカイヴ

キャロサンプから、リュック・フェラーリ大友良英による「水から救出されたアーカイヴ」の音盤が届いた。

この「水から救出されたアーカイヴ」は、フランスのミュジック・コンクレート界にて最も独創的かつ酒脱な作品を作曲し続けていたリュック・フェラーリが、2000年の1月から4月にかけて作曲した2枚のCDと一組のLPのための(つまり2人のDJがCD-Jとターンテーブルで共演する)作品である。彼がその晩年に取り組んでいた「概念の展開」シリーズの第一作でもある(この「概念の展開」シリーズは、最終的に第七作まで作られ、そのうちの四作品を現在CDで聴くことができる)。2003年のフェラーリ2度目にして最後の来日時に、六本木のSuperDeluxeでフェラーリ大友良英によって日本初演(10月19日)。このCDはその際にライブ録音されたものである(ライブ録音だが、ラインで録られたものなので、会場ノイズ等は一切ない)。

さて、この「水から救出されたアーカイヴ」には、フェラーリがその死の直前までコラボレーションしていたeRikmとの演奏がCD化されていたが、eRikmの演奏は音色に対する感覚が若干粗雑で、私としては満足いく演奏ではなかった。

フェラーリは、自宅の他にアトリエ・ポスト・ビリッヒというこじんまりしたアトリエをもっていたのだけど、そこは編集用のパソコンとプレイバック用のスピーカーがある程度の本当に慎ましい施設で、ここで制作された作品はその制作環境の制約からかデジタル臭の強い音色をもち、アナログ録音の極限ともいえる70年代の諸作品、たとえば「春景色のための直感的小交響曲」(1973−74)や「ほとんど何もない あるいは海岸の夜明け」(1967-70)に比べると、その音色の瑞々しさという点では一歩遅れをとっているように思われた。

だが、2003年にこの演奏をライブで聴いたとき、この欠点が見事に美点へと転換されていることにまず驚いた。デジタル臭の強いCDによる音源と、アナログのLPの音源、これらを併置すると単独ではなかなか気付かないそれぞれの音の個性が現われ、それゆえに各人が持ち寄る素材のキャラクターは明白となる。こうしたアウトラインが生まれたことで、2人の演奏が互いに液状化してしまうことなく、50分余りの長時間の持続に耐えうる情報の多層化が可能になるわけだ。改めて言うまでもなく、大友は優秀な「ハイファイ耳」の持ち主で(Groud Zeroの音盤に膨大な音楽情報が含まれているように聴こえるのは、単に沢山の音が鳴っているからではなくこの耳でそれらが多層化されているからに他ならない)、その資質ゆえにここでの演奏はこの作品の理想的な演奏の一つとなった。

もちろん、CDでは両者をともに一度デジタルに変換してしまうために、CDとLPの違いはライブ演奏ほどには表に出てこないわけだが、それでも、両者が持ち寄る音素材の性格の違いが理解できる録音になっていることは特筆されるべきだ。

このCDは上記キャロサンプのHPを通じての通販や、ライブ会場での手売りを中心に販売されており、今月の初めに私がタワーレコード、ディスク・ユニオンの売り場で探した際には見つからず、店員もその存在を知らなかった。ちなみに、美しいジャケットの写真はカヒミ・カリィによるもの。