「イチかバチか」(川島雄三'63)


注意)「イチかバチか」「昨日と明日の間」2作品の結末に触れています。
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フィルム・センターでの川島雄三特集が終わった。最終日である22日には、遺作である「イチかバチか」を鑑賞、これで今回の特集で上映された39本のうち38本を観たことになる。唯一観なかった作品が「幕末太陽傳」という私の偏屈ぶりを、川島は笑うだろうか?
城山三郎の企業小説を原作とする「イチかバチか」は、伴淳三郎演じるシブチン社長が、その全資産200億を投入して敷地50万坪にも及ぶ大工場を建設しようという物語。何せ、劇中のサラリーマン(高島忠夫)は月給手取り5万余で雇われるが、それとて破格の待遇だった時代の話である。工場の誘致を目指す多数の候補地の争いは熾烈を極め、中でもハナ肇演じる愛知県某市の市長の押し出しは強烈。映画では、こうした人々による虚実交えた駆け引きが、乾いたお笑いとともに描写されていく。
私はこの映画のラストシーンに強い衝撃を受ける。物語終盤に至って、紆余曲折あった工場の建設計画はすっかり出来上がり、祝賀会が開かれるシーン。工場の設立資金となる200億円の現金を囲んでの祝賀会(伴淳三郎演じる社長は、実際に現金を積んでみないと巨額の資金にリアリティを感じられないという設定)の画はそれだけでも強烈なインパクトを持つのだが、そのことは措くとして、そのめでたい席で、工場の設立に奔走してきた社員:高島忠夫は辞表を差し出すのだ。「ここまで来れば、あとは誰がやっても上手く行くでしょう。僕はそうしたものには興味がなく、ここを辞めてまた何か新しいことを一から始めるのです」。
川島作品を漏れなくご覧になっている方なら、これと似たセリフをどこかで耳にしたことがあるはずだ。そう、「昨日と明日の間」(1954)のラスト。この映画でも、主人公(鶴田浩二)は、ともに飛行機会社を興した出資者に全く同じようなセリフを残し、沈没船をサルベージする仕事を始めるために南洋へと赴いていく。鶴田を想う2人の女性、月岡夢路も淡島千景ももはや彼についていくことが出来ない。そして、川島自身もこの「昨日と明日の間」を最後に、長年勤めた松竹を後にし、日活へと移籍して行く。
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完成されたものには興味がない、そんなものはさっさと捨てて次へ行く、というのは、川島の創作態度そのものでもある。特定のスタイルをもって大家と呼ばれるよりも、スタイルらしきものが出来上がったならそれをズタズタに切り裂き、その裂け目から新しい何かを取り出そうとする。人間、ある程度の年齢になったら自らの「勝ちパターン」を作り、その中で仕事をした方が楽なはずだ。しかしながら、川島はそんな定型から「太陽傳」の佐平次よろしく、スルリと逃げ出して行く。積極的逃避。逃避とは臆病者の専売ではない。仕事や生活が安定しているならば、誰が好き好んで逃走するだろうか。ぬるま湯のような安定に首まで浸って、似たような作品を作り続けた方が楽ではないのか。目先の安定を足蹴にして逃走するには、自分の腕に対する自信と何よりも踏み出すための勇気が必要だ。この心意気ゆえに、川島の作品はたとえそれが世間的にどんなに駄作と貶されている作品であっても一見の価値がある。失敗作は失敗作で、思い切った実験が行われていたりするものだ。例えば「夢を召しませ」(1950)では、アニメーションまで挟み込み、松竹歌劇団のレビューを徹底して人工的に演出することが試みられているし、「真実一路」(1954)では撮影の高村倉太郎と組んで、入念な仕掛けを施した上での長まわしに挑戦している。
「イチかバチか」のラスト、祝賀会場には工場の完成予想模型が大きく設えており、伴淳三郎が受け取った辞表はその上へとひょいと投げ出される。模型の工場の全景と投げ出された辞表が対峙するかのように俯瞰で捉えられ、そこにテロップが重なって映画は終わる。げに見事な終幕というしかない。この映画の公開5日前に川島が病死したことを知るがゆえに、私はこのラストに戦慄する。川島はまだ逃げるつもりだった。青年時より筋萎縮症という病を抱え、ついには横になったまま冷たくなり発見されるような、あまりにも重い体をもちながらも、川島の精神は軽やかに逃げるための算段を、まだまだ続けていたのだ。