蛭多令子ピアノリサイタル 〜西村朗の世界〜

14:00 東京文化会館 オール西村朗プログラム
オパール光のソナタ
夜光
薔薇の変容
カラヴィンカ
光の雫(委嘱初演)
「ヴィシュヌの化身」より<<ヌルシンハ>>
アンコール
星の鏡
正直、オペラシティが委嘱した弦楽4重奏曲第4番「ヌルシンハ」には幾らかの疑問も持った西村朗であったが、管弦楽の新作ではそれなりに意欲的な試みもみられたので、ピアノ曲の新作にも興味を持ったという次第。
オール西村プログラムとなると、鮨でいうところのマグロ尽くしのようなものになるのは必定。よって、問題は各曲間の音響の差異をいかに表現できるかにかかってくるかと考え、主にその観点よりコンサートを聴くこととなった。
しかしながら、譜面に並んだ音符を音にするという意味では相当の水準にあったものの、さらに踏み込んだ音色の表現には物足りないものがあった。例えば、「星の鏡」や「夜光」といった、ソステヌート・ペダルやダンパー・ペダルを踏み込んだまま音を連ねていく作品においては、保持されている音響の上にいかに次の音を乗せていくのかが問われる。要するに、自分が過去に出した音(の残響)と協働しつつ音楽を作ってくところに本質があるわけで、そこを突き詰めることによって、単に旋律という横の流れを繋げていくのとは異なった表現の位相も見えてくるはずだ(アメリ実験音楽の表現を血肉化しているとすれば、そうした表現も自然に表に出てくるように思うのだが・・・・)。
上記の2作品では単純な記譜ゆえにそのことに気付かざる得ないが、この視点は、他の作品においても、例えば複雑な和音のアルペッジョをどう弾き、どうペダルを踏み込むかという点に関わってくる。それを和音の連なりの中で巧みに計画することにより、より色彩のグラデーションの細かな、次元の違う演奏表現を実現する可能性が、西村のピアノ曲には確かにあるように思われる。だが逆に、このような綿密な色彩の設計が欠けていると、たまに登場する特殊奏法がこれみよがしに聴こえてしまうという危険をはらんでいることを、痛感することにもなったコンサートであった。
ちなみに、西村自身によれば、新曲の<<光の雫>>は、急速なアルペッジョ中の1音が、和音に置き換わっているような、ピアニズムの極限に挑戦した作品とのこと。確かに大変な作品であったことは間違いない。