奏楽堂の響き2

4/27 18:15 旧東京音楽学校奏楽堂
福田滋指揮:リベラ・ウィンド・シンフォニー
團伊玖磨:オープニング・ファンファーレ
芥川也寸志:祝典組曲no.3行進曲(Marcia in do)
松平頼則:日本舞曲第2
平尾貴四男:「南風」
須賀田礒太郎:フーガによる舞踏曲
早坂文雄:映画音楽「海軍爆撃隊」より 【平原伸也 編】
伊福部昭:Marche Triomphale(マルシュ・トゥリヨンファル)【今井聡 編】
黛敏郎シロフォン小協奏曲〈ソロ 片岡寛晶〉
松村禎三交響曲第一番第3楽章【宗形義浩 編】
北爪道夫:森のファンファーレ
湯浅譲二:芸術劇場「火星年代記」より
白石茂浩:フルートと吹奏楽のための「夕鶴幻想」〈ソロ 江尻和華子〉【福田滋 編】
伊福部昭:SF交響ファンタジー第2番【福田滋 編】
木山光:Black Symphony
黛敏郎:NTVスポーツ・ニュース・テーマ音楽【松木敏晃 編】
リベラ・ウィンド・シンフォニーは2001年にアマチュアの有志で結成され、その後、プロ奏者を中心に再結成された吹奏楽団。日本人作曲家の作品をレパートリーの中核に据えた、吹奏楽におけるオーケストラ・ニッポニカ(過去の記事参照のこと)といった趣か。そうは言いつつも、プロを中核としつつ、音色から推定するところ一定数のアマチュア楽家も混ざっている様子で(さらにいうと、そのプロにしても吹奏楽畑の方が大多数といった感)、それゆえ、対位法を駆使した音楽よりも、ホモフォニックに重ねられた音響を重心低く聴かせるのに向いたシフトと評すことが出来るだろう。
で、楽曲・演奏ともに収穫だったのは芥川。作曲年である1959年は、前年に「エローラ交響曲」を書き上げ、翌年の「暗い鏡(ヒロシマのオルフェ)」へと向かう時期だが、その時代様式を反映してか、このマーチでも、分厚い和声で進行する物々しい部分と、1950年前後の芥川を思わす洒脱な部分とが混交する。芥川の吹奏楽曲といえば、「風に向かって走ろう」や「栄光をめざして」といった国体や新聞社の委嘱で書かれたマーチが思い浮かぶが、そうしたものよりも芥川本来の作風が直接的に反映しているこの作品を発掘/演奏することは、正しい。
個人的には、湯浅譲二レイ・ブラッドベリ原作のラジオ・ドラマ「火星年代記」(1966)のために書いたマーチが気にかかっていたが、これがなんとCDにもなっている行進曲「新潟」(1973)とほぼ同じ曲。というか、年代から見て、「火星年代記」に新たな素材を加えて編みなおしたのが「新潟」ということなのだろう。 もっとも、ラジオ・ドラマ音源では、収録中にマイクを動かして音像を移動させる試みが行われていたというが。
木山作品は吹奏楽編成を技術的限界ともいえる爆音・高速で機能させようというコンセプトらしいのだが、率直に言ってアンサンブル・モデルン版のフランク・ザッパ「G-Spot Tornado」を大音量で下手糞に演奏したようにしか聴こえない。限界を超えた音量で息継ぎもそこそこに吹き続けるならば、発音のクオリティがどんどん下がり、リズムもダルになっていく。その様は、奏者の努力に反比例してかっこ悪い。
2005年から2006年にかけて、木山のピアノ曲「苦しむ中層雲」(2004)を、大井浩明と野田憲太郎の演奏でそれぞれ聴く機会があったのだが、それらは、作品のポリリズム的な要素を正確に表現しようと試みる大井と、細部には気にもとめずにとにかく爆音で押し流そうとする野田、と評せる演奏だったように思う。
木山がこの野田の演奏に大喜びだったと聞き、それはいくらなんでも作曲家としてどうなのよ、と思ったのが既に2年前なのだが、勘違いも行くところまで行き着いた、というのが今回の作品を聞いての正直な感想。そもそも140dBまで音量を上げると人間の耳は音響の細部構造を弁別できなくなるので、そんなに大音量が好きなら、ビートルズでもプレスリーでもベートーヴェンでもブーレーズでもフェルドマンでも、好きな音源をアンプリファイして140dBで聴けば良いと思うのだが。「皆同じに聴こえます」とは、かつて同様の実験を試みた菊地成孔の弁(ちなみに、生音の吹奏楽では140dBなんて逆立ちしても無理で、何故かというと、デシベルは対数スケールだからデシベルを20上げるために音響エネルギーは10倍必要になる)。また、大音量ならではの語り口を考えるならば、メルツバウやインキャパシタンツといったユニットの方法論は避けて通れないので、木山にはその辺りを聴き込んで早々に目を覚まして頂きたいところ。まだ若いし。
謹告:
野田憲太郎氏に関連して当ページへいらっしゃる方が多いようですが、ここでの記述はあくまである演奏会でのある曲目での演奏(具体的には2006年1月4日の、中目黒GTホールでの木山曲の演奏)についての論評であることにご注意下さい。上述のように、この日の木山曲の演奏が決して褒められたものでなかったことは確かですが、それをもって野田氏の音楽的能力を全否定することはできないと考えます。
実際、2006年8月12日に行われたアメリカの作曲家:デアリ・ジョン・ミゼルの「変容」の初演(野々村禎彦氏によるレビューもあり)などは、私も高く評価するにやぶさかではありません。氏のリサイタルは現在までに3度聴き、2度は正直入場料を返して欲しいと思う出来でしたが、1度は満足の行く、むしろ積極的に評価したいものでしたので、東京でリサイタルがあるなら−他に用事がなければ−行ってみよう、と思わないではない程度には氏の演奏を評価しています。