エグベルト・ジスモンチの来日公演について週刊新潮の取材に答える

本日発売の週刊新潮に、エグベルト・ジスモンチの来日公演(13日、14日 すみだトリフォニーホール)が紹介されており、これに関する取材を(先の土曜日に)電話にてお受けした。

エグベルト・ジスモンチの倫理 そら飛ぶ庭 趣の庭 (リンクあり

を読んで、電話を下さった様子。

一言で言ってどのような音楽家ですか、と訊かれて非常に困った。というのも、一言で表現されることをやんわりと拒むかのような音楽性が彼の身上であるわけだし、そもそもどのような音楽家であれその音楽性を一言で表現するのはきわめて難しい。その一言でその音楽家の出来るだけ多くの魅力を掬い上げるべく悩み続け、夜な夜な布団を被って泣いているのが私の日々の生活なものなので。

結局、過去に書いた原稿を叩き台にしたブレストのようなものになる。

ただ、指揮者は、去年の沼尻氏より今年の広上氏の方が向いている(優劣ではなく、あくまでも向き不向き)のは確かなように思うので、今回の公演は昨年の来日公演を聴いたものにとっても聴き逃せないものとなるのではないか。

第一日目を聴いての補足。
1日目の演奏では、オケは全くダメでした。昨年の沼尻=東フィルと比べられるものですらない。広上淳一という指揮者を過大評価していたのだと心底思い知ったという次第。そのことを当ブログの読者各位にお詫びするとともに、ピアノとの協奏的作品は、ギターとのそれに比べるとオケパートの技術的至難さが減じているので、広上氏の持ち味も出てくるのではないか、と予想してみる。

さらに、補足。
予想通り、というか、2日目の演奏はオーケストラ・パートの至難さが減じている(というか、満身創痍でもとにかくソロに食らいついていけば音楽になるように構成されている)こともあって、日本でのジスモンチとオーケストラとの共演では、最も満足のいく結果となったように思う。一言注釈をつけておくと、ジスモンチがオーケストラのために書く作品は、たとえばギターをソロにした場合とピアノをソロにした場合でもかなり難しさの性質が違う。一見単純だが実は・・、というのは、ピアノをソロにした場合に当てはまることで、ギターがソロになった場合は、ポリリズム的な要素が前面に出て「単純」なんて言っている場合ではなくなる。その上、曲の性質上、PA必須で演奏を行わなくてはならないわけで。これがこれでまた難しい。そのあたりのことはエントリーを改めて。

Saudacoes

Saudacoes

予習盤としては目下の最新盤であるこれを。