クラフトのストラヴィンスキー

八村義夫松平頼暁宅へ夜中に電話をかけてきて、藪から棒に時計の針が刻む音は何拍子だと思う?と訊き、1拍子だ。と松平が即答したという話は、2人の作曲家の志向の違いを物語る素晴らしい逸話だと思う。発音のシステムが同じなら針は常に同じ音を刻むしかなく、したがって拍節など存在せず言うなれば1拍子だという松平と、その変わらない刻みに何らかの拍節を幻視せずにはいられない八村。なるほど、この差異は2人の作曲家の作風にも如実に反映している。
本来のアイディアとしては、この1拍子陣営に連なる作曲家としての平石博一とその個展について語るつもりだったのだが、某演奏会の準備やら某演奏会の手伝いなどしているうちに3月は物も言う暇なく過ぎ去った。
そうした3月に繰り返し聴いていたのがこの音盤である。



Later Ballets: Jeu De Cartes Danses Concertantes

Later Ballets: Jeu De Cartes Danses Concertantes

「カルタ遊び」(1935-36)、「ダンス・コンセルタント」(1941-42)、「バレエの情景」(1944)、「変奏曲」(1963-64)、ピアノと管弦楽のための「カプリッチョ」(1929)を収録。

ナクソスからリリースされている、ロバート・クラフト指揮によるストラヴィンスキー集の1枚。改めて考えてみるまでもなく、ストラヴィンスキーこそ典型的な1拍子陣営の作曲家に他ならない。その明晰さへの志向、音楽においてはスコアにあることしか起こらないという見切りの潔さは、他の新古典主義作曲家と比べて断然際立っている。以前、菊地成孔大谷能生両氏による「憂鬱と官能を教えた学校」という本に関わったとき、新古典主義シェーンベルクらの12音主義とが対照されていることに非常な違和感を持っていたのだが(なぜなら、12音技法の導入と同時に古典的な形式へと回帰したシェーンベルクもまた、新古典主義者であると考えることが出来るし、実際シェーンベルク新古典主義者として扱う言説も存在するから)、新古典陣営の中枢にストラヴィンスキーという何よりの体現者がいればこそ、この対照はギリギリのところで成立しているようにも思った。
そうしたストラヴィンスキーの志向は、1950年代以降に12音技法を導入したのちも全く変化することが無かった。スコアに書かれたことしか起こらないという突き放した見切りと、それゆえの徹底した音の扱い、楽器法の上手さが、シェーンベルクヴェーベルンの音楽からは決して聴くことが出来ない極めて乾いた音世界へと結実している。いや全く、12音技法で書かれた作品は皆同じに聴こえるなんて戯言を吐く人間には、ヴェーベルンストラヴィンスキーの聴き比べをさせるべきだ。もしそれでも違いがわからないようなら、もはや現代音楽を聴くことは諦めるべきであろう(内山龍雄風)。
で、このCDの最大の聴きものとなっている「変奏曲 オールダス・ハックスレー追悼」(1963-64)である。全編に12音技法が用いられたストラヴィンスキー最後の管弦楽曲を、1948年以降ストラヴィンスキーの最大の協力者であり続けたクラフト(この作品の初演者でもある)が見事に指揮する。餅は餅屋という標語を信奉する気は全くない、が、この6分に満たない作品のスコアに含まれる膨大な情報をこれほどまで明晰に聴衆へと伝える演奏は正直聴いたことがない。これは良い耳の賜物という他ないが、同じくナクソスからリリースされている「アゴン」の録音からもわかるとおり、クラフトの棒さばきもそれは確かなもので、オーケストラを機敏に反応させてエッジの立った表現を実現していることにも驚かされる。この恐るべき指揮者をストラヴィンスキーという後見と切り離して評価し、一刻も早く名指揮者の殿堂へと上げて顕彰しなくてはならない。


Three Greek Ballets

Three Greek Ballets

部分的に12音技法が用いられている「アゴン」(1957)をはじめ、ギリシャに題材を求めた3つのバレエを収録したCD。

憂鬱と官能を教えた学校

憂鬱と官能を教えた学校

この本に「標柱 シリンガーとバークリーの理論を巡って」という8ページほどの文章を寄稿した。もう随分前のことのような気がするが。

相対性理論 (物理テキストシリーズ 8)

相対性理論 (物理テキストシリーズ 8)