第2回東京佼成ウインドオーケストラ 作曲コンクール本選会

8日 14:00 東京芸術劇場

中学時代に吹奏楽部にいたこともあり、この分野で面白そうな催しがあると聞けば、出来る限りチェックするようにしている。今回は、佼成ウインドオーケストラが主催する作曲コンクールの本選会があるというので池袋まで出かけてきた次第。このコンクールは3年前より開始され、今回が第2回目となる。前回の概略については、過去に書いた日記を参照されたい。

http://d.hatena.ne.jp/J-Ishizuka/20061126#1209900816

前回の応募作は83作品に及んだというが、今回は世界13カ国から38作品に留まったという。半減というところだが、スティーヴ・ライヒが審査する武満賞にだって76作品集まった程度なのだから、まあ前回が集まり過ぎたのだろう。吹奏楽コンクール課題曲公募くらいのノリで書いてきたガキどもが、前回の本選をみて「こりゃかなわん」と離れたということだろうから、その点については気にする必要は全くない。後述のように、本選に出場した作品の質は、格段に向上したのだから。

ただし、客席は相当にまばら。あれは2004年だったか、台風が直撃する中行われた、都響の日本の管弦楽作品を集めたコンサート(松平頼則「3楽章」、篠原眞「ソリチュード」など)以来のガラガラ感。今年本選会があることは知っていてそれなりに気にしていた私だったのだけど、この本選会の宣伝については見たことがない。現代音楽畑をはじめ、通常の吹奏楽ファン以外への広報をもう少し拡充すれば、興味をもって出かける人間も増えるだろう。武満賞や芥川作曲賞はもちろん、人が入らないことで知られる日本音楽コンクールの作曲部門本選会だってもっと人が入っているわけで。個人的には、公式HPなどを作り、そこにファイナリストの作品のスコアから3ページ(位が適当?)を作曲者に選んでもらって載せるとか、当日は武満賞のように作品スコアをロビーに展示するとか、未知の音楽が音になることそのものへの興味をもっと煽ってもらえれば、と思ったり。どうせ、いわゆる吹奏楽ファンは来ないのだから。

本年の審査委員は、審査委員長の湯浅譲二をはじめ、ダグラス・ボストック、姜碩煕、石田一志、北爪道夫、西村朗松下功の7人。譜面審査による第一次選考、非公開での演奏審査による第2次選考を経て決定されたファイナリストは5人。

演奏順に。

平野達也(日本)/ 吹奏楽のための「ノットゥルノ」
ブライアン・ハーマン(カナダ) / ダイアレクティクス
稲森安太己(日本)/ 吹奏楽のための「グランド・アラベスク
フランシスコ・ザカレス・フォルト(スペイン)/ デ・カウシス
山内雅弘(日本)/ 宙のとき〜吹奏楽のための〜
演奏は、小林恵子:指揮 / 東京佼成ウインドオーケストラ

曲ごとにコメントを
平野作品は、たとえば3本のトランペットの音を重ねる際、2本はストレート・ミュート、1本はカップ・ミュートをつけて演奏させるというような、個性的な色づけを目指したもの。しかしながら、吹奏楽にありがちなクラリネットの無駄な重ねによる鈍重な響き(こうした重ねは技術的に未成熟なアマチュアが演奏することを想定しての方便のようなもので、純音楽的にはかえってマイナスである場合が多い)をどう解消するのかには無頓着で、自身が編み出した個性的な響きに聴き手を集中させるような書き方になっていないのが問題。たとえば高校時代からの着古しのジャージをだらしなく着て出かける人が、ただ一点、お気に入りの手作りのブローチをつけていてもお洒落にはならないわけで。小さな点にこだわりがあるなら、その美点が生きるように全体にも気を配らなくては。

ハーマン作品は、カナダにおける「ハリー・パーチ以後の傾向」の延長線上にあるもの。この国では、アメリ実験音楽についての卓抜した理論家であり、作曲家でもあったジェームズ・テニーが長年教鞭をとっていた関係からか、自然倍音列に基づき、時に平均律音程からのズレをセント単位で細かく指示するような、極めて微細な微分音作品を書く一派が存在する。この作品も微分音程が全曲でつかわれており、それらは自然倍音列に基づくものと、それらから人為的操作によってズラして生成されたものとに大別され、双方の対照が主な主題であったと推察される(スコアを閲覧したわけではないので、記譜がどのような形になっていたかはわからず、作曲者によるプログラム・ノートと演奏から想像している。追記:レセプションに参加した中橋愛生氏からの情報によれば、微分音の指定は細かいもののセント単位というほどのものではなかったらしい。ただし、指示の細かい微分音作品の演奏が難しいことは確かなので、以後の論旨は変わらない)。演奏は相当にレベルの高い誠実なものだったが、こうした極めて特殊かつ至難な作品の性格ゆえ、作曲者の意図する効果がどこまで実現していたかについては疑問も。ラッヘンマンの「アッカント」や「アレグロ・ソステヌート」で極めて正確な演奏を披露し、多井智紀をして「まるで機械です」と言わしめたクラリネット奏者の岡静代が、音程をセント単位で指示するテニーの作品には相当否定的に語っていた(自身のHPに敷設された掲示板にて。現在はもうない)ことを思い出した。こうした微分音を駆使した作品を作曲する場合には、作品を演奏可能にする手段を、作曲家が演奏家に確固として示すくらいのことが出来ないと難しい。この点で、ライヒが審査をした武満賞での中谷通作品と同様の問題があるといえる。ただし、微分音程で各楽器が干渉する響きの美しさ、それを前提とした音楽の彫琢のあり方には説得力があり、私としてはこれが1位でも良かったのだけど。

それから、プログラムに記載されたこの作品についての解説(作曲者自身による)、
The harmonic series is used extensively in the composition as a source for pitch collections, both in its natural form and in a variety of manipulations of the series.
の訳が、
音の高低の集まりを音源とした和音の音列が、時には自然の形で、また時には人為的に音の操作がなされ、曲の中で広範囲にわたって使われている。
というのは、あまりに酷く、音楽を知るものが監修したものとは到底思えない。harmonic seriesをキチンと倍音列と訳しただけでも、作曲者の言わんとすることは何倍も明確になると思うのだが。この翻訳をおこなった人物が、もし、リハーサルなどで作曲者と演奏家との意思の疎通を行っていたのなら、それはお気の毒という他ないかと。

稲森作品は、管楽器群によって不断に織り重ねられていくアラベスク模様。上で書いたような、主にクラリネットの不要な重ねから発生する吹奏楽的な響きは、音量をピアニシモに抑えたり特殊奏法を駆使することで巧妙に回避されている。軽やかさを与えられた響きは、無窮動的音風景の中で精妙に重ねられていくわけだが、途中、ソリスティックに扱われるクラリネットの首席奏者の扱いなども含め、それらは極めて洗練されたもの。幾つかの楽器は客席に配置され、ステージ上の楽器との距離から生まれる微細なズレ(もちろん、これは意図して持ち込まれたものだろう)を心地よく作り出し、これが1位だと個人的には思っていたという次第。

フォルト作品は、冒頭のカオティックな響きの中から、歪んだ擬3拍子の舞曲が現われ、それが次第に高揚して熱狂的なクライマックスを迎えて終結する。大編成で、後半良く鳴る楽器法も含め、まあ、吹奏楽にありがちの作品といえばそれまで。ただし、プログラムノートを読んだ際にはあまり期待していなかったものの、ところどころで聴かれる個性的な音響はかなり耳を惹いた。変拍子を含んだ舞曲もそれなりに面白く、吹奏楽コンクール全国大会常連レベルの団体の自由曲にどうぞ、という感もないではない。

山内作品は、稲森作品と同様、管楽器の特殊奏法を主体とした重ねが聴ける作品で、その響きの透明度については賞賛を惜しまないものの、中間部の音響的クライマックスが、いわゆる日本のゲンダイオンガクめいた威圧的かつ旧来的なものに収斂してしまうのが残念。さらに言うなら、この作品における特殊奏法や息音を駆使した透明な響きも、北爪道夫の「風の国」や「雲の変容」(今年の佼成ウインドオーケストラの第100回定期で演奏された作品)を否応なく思い起こさせる風情で、25年近く前に発表された北爪作品の方がそうした素材に相応しい音楽の全体像を生み出していたことを考えれば、個人的にはそう高く評価すべきものでもないように思えたり。

私的順位は、

1、稲森
2、ハーマン
3、山内
4、フォルト
5、平野

といったもので、第1回コンクールで1位なしの2位に入ったホーリントンの作品をここに加えるなら、山内とフォルトの間に入れるのが適当と思う。ただ、結果は私の予想とは随分違ったもので、

1、山内
2、フォルト (佼成団員が選ぶフェネル特別賞も)
3、稲森

平野 (審査員特別賞)

へと落ち着いた。

この結果についてはともかく、演奏曲のレベルが3年前に比べて格段に上がっていたので、コンサートとしてはそれなり満足のいくものではあった。何より、佼成ウインドが、通常の作曲コンクールではまず考えられないような長時間のリハーサルを行っているとかで、演奏の水準が相当に高い。ハーマン作品と稲森作品では、世界に多々ある吹奏楽団の中でもこの団体しか演奏出来ない技術レベルが要求されている。なおかつ、このコンクールでは2次選考ですら実際に音を出しての選考が行われているため、そこまで残ったら、一応自作品の演奏を聴くことが出来る。これは通常のコンクールにはない美点なので、その点が今後も担保されるならば、吹奏楽という通常の作曲家にとっては馴染みない特殊な編成ながらも、わざわざ作品を書いて応募するだけの価値はあると思う。

ただ、講評を述べるのが審査委員長である湯浅譲二1人だけで、個々の審査員が誰に何点を投じたかといった詳細が明らかにされていないのは問題(それだって、審査の講評が会場でなく、関係者のみに閉じたレセプションで行われるという、第1回のどうしようもない仕切りにくらべればかなり改善されたわけだが)。人の作品を審査する以上、審査員個々の価値観やら審査に対する姿勢というものも、厳しく問われなくてはならないはず。よって、文責をとるのと同様、それぞれの審査員がどの作品をどのように評価したのかは全て公開し、審査員の責任は明確化されなくてはならない。

今回、フォルトが第2位に入賞したことと、ハーマンが一切の賞から漏れたことはいくらなんでも、と思ったし、フォルトの入賞については審査委員長の湯浅本人からして全く納得のいっていない様子だったわけで、それだけに誰の責任で彼が2位になったのかは明らかにしないと。

また、アマチュアでの演奏を想定して技術的な手心を加えた、ちょっと聴きやすいだけのしょうもない作品を一切最終選考に残さなかったことについては、全面的に支持する次第。吹奏楽という世界では、そういう曲は放っておいても(アマチュアの委嘱などから)生まれてくるわけだから、わざわざ楽団の名前を背負って公募する必要は全くない。佼成ウインドでなければ演奏できない作品が続々と応募されるようになれば、国際コンクールとしての評価も確立するだろうし、楽団、ひいては吹奏楽というジャンルの地位向上にも有益だろう。フォーミュラーカーには誰もが乗れるわけではないけど、それを開発する技術は、一般車の製造にも生かされるのと同じこと。

同行した作曲家の中橋愛生氏はレセプションに連れて行かれたので、私は池袋のヤマハでバッハの「トッカータ」と「パルティータ」の譜面を購入して帰宅した。バッハを弾くという行為は、どうしてこんなにも辛く、そして楽しいものなのだろうか?