クセナキス名盤紹介 巻頭言

これは、2001年の作曲家:ヤニス・クセナキスの逝去をうけて、今はない「クラシック招き猫」というサイトへと投稿した記事が元になっています。それに若干手を加え、2002年頃から作曲家:中橋愛生氏のHPに掲載して頂きました。2003年に私が柴田南雄音楽評論賞の奨励賞を頂きますと、肩に余計な力が入っている感じのこの原稿が少々恥ずかしくもなり、改稿しますと宣言して、掲載を中止してもらうことにいたしまた。その後、実際に改稿を行う踏ん切りがつかず、未だ中橋氏のHPの該当箇所は改稿中として空白になっているわけですが、今、読み返してみると、当時の押し付けがましい感じも、まあ、自分に精神的な余裕が出てきたせいでしょうか、それはそれで味になっているように思え、ここで公開することに致しました。抜本的な改稿は必ず行い、こちらは中橋氏のHPに寄稿することになるかと思います。

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弦楽合奏のための作品集

Music for Strings

Music for Strings

RZの2枚組

Iannis Xenakis

Iannis Xenakis

Timpani管弦楽曲集の4枚目、5枚目

Works for Orchestra 5

Works for Orchestra 5

など、執筆後に極めて重要なリリースがありましたが、本稿では触れられていないことにご注意ください。ここ7年余りの新リリース等を考慮して、現在では推薦盤に含めない盤に×を、重要性が薄まってきたと思われる盤に△をつけました。入手が難しくなっている盤には、(絶版)の印をつけています。

では。

**********

Iannis Xenakis (1922-2001) のこと

ヤニス・クセナキス。この、20世紀後半のクラシック音楽界を代表する作曲家が亡くなってから、来年の2月4日で丸2年になろうとしています(執筆時)。

ここ5年程の間に、クセナキス作品のCD化は、かつて誰もが想像しなかったペースで進んできています。『ボホール』、『ペルセポリス』、『クリュニーのポリトープ』といったアナログテープ音楽の傑作は、ほぼ全てがCD化され、3年前より開始された、アウトゥーロ・タマヨ指揮による、クセナキス管弦楽作品全集という一大プロジェクトも、年1枚のペースで確実な成果を挙げつつあります。さらに、現代音楽での素晴らしい復刻で名を上げているドイツのRZレーベルが、かつてERATOからリリースされていた音源を中心とした復刻を計画していると聞きますし、col legno からは、クセナキスの公式的なデビュー作として知られる『メタスタシス』以前に書かれた管弦楽作品がリリースされるという話もあります。テープ音楽に続いて管弦楽作品でも、ようやくCDリリースの駒が揃ってきて、クセナキスという巨大な作曲家の輪郭を捕らえることも、どうにか可能になってきたという状況。そうした地点に、今、我々はいるというわけです。

加えて、現代音楽をめぐるリスナーの環境も様変りしつつあります。インターネットの普及により、旧来はそれぞれが孤立していた現代音楽リスナーに横の繋がりが生まれ、口コミでCDが売れ出すという現象も出てきました。クセナキスの最もコアなテープ音楽作品:『ペルセポリス』が、タワーレコードの店員もいぶかしむ程に売れた理由の一端もココにあるのでしょう。故に、クセナキスの音楽が持つ圧倒的な力に打ちのめされて来た私などからしても、本当に信じられないような勢いでクセナキス作品がブレイクする可能性も出てきました。だからこそ、今、一般的なクラシックファンを含む多くの聴き手に向け、改めてクセナキス作品の魅力を紹介しておくべきなのかも知れません。それこそが、現在、目立たないところで、しかしながら確実に進行しつつある「音楽受容における地殻変動」の全容を正しく捉え、音楽、そして聴衆を取り巻く環境の豊饒さへとつなげるために、是非とも必要なことだと思われるからです。

この文章はもともと、2001年の2月4日に亡くなったクセナキスを追悼する意を込めて、「クラシック招き猫」というサイトへ投稿したものでした。nappさんのご好意で、ここへ転載させて頂くにあたって文章表現に若干手を入れ、さらにその後リリースされた何枚かのCDについてもフォロー致しました。ただ、これからも、クセナキス作品のリリースは続くことでしょう。故に、紹介するに足る内容を持つCDがリリースされたなら、順次リストへと付け加えて行く予定です。

最初に一言申し上げておくと、クセナキスの業績を、数学や建築といった音楽外の知的な側面に関連させて紹介するのは、もう十分でしょう。むしろ『作曲に数学を駆使した理知の人』という、クセナキスに対するかなり一方的なレッテル付けが一人歩きしている現状が、クセナキスの音楽性の本質が理解されることを妨げているのでは無いか?と危惧されるのです。

クセナキス音楽史上における業績を一言で言い表すなら、単に、

従来の作曲手法では制御不能な程の大量の音。それらを制御する方法を発明し、それによって音の奔流が渦巻く圧倒的に力強い音楽を創り出した。

と表現するのが妥当で、必ずしも彼の発想が数学や建築に結び付いていたことを強調する必要は無い、というのが私見です。実際、クセナキスの業績を数学や建築といった音楽外の知的な側面のみから評価する言説が多いのは確かです。でも、そんなものは、「音楽そのものに対峙していないというヘタレぶり」において、クセナキスが用いた技法を数学的に検証し誤りを見つけることで、彼の作品そのものを否定出来た気になっている別宮貞雄的マヌケさと大差無く、同じコインの裏表を成しているに過ぎません。まあ、こういうのはどちらも捨て置くのに越したことは無いでしょう。

もちろん、数学や建築にオリジンを求めることが可能な手法が、クセナキスの作曲に大きな影響を与えていたのは事実で、それは、彼が晩年に作曲した、数学的、建築学的思考の希薄な作品が、それなりに個性的ではあるものの、往年の作品と比べれば目に見えて力の無いものになっていることからも、明らかだと言えます。それでも、そのような作曲技法に関する知識を云々することが、クセナキスの音楽が《聴くもの》にもたらす感動をどれだけ説明してくれるというのでしょうか?丁度、ジェットコースターの設計をするには変分法の知識が必要だが、単に乗って楽しむのには特に数学的知識が必要になるわけではないように、クセナキスの音楽を聴くのに、彼が用いた数学的技法に気遅れする必要は、決して無い、のです。

50年代後半より、ペンデレツキ、リゲティといった作曲家達が、トーンクラスター音楽と呼ばれる、密集した音程関係内にある音を一度に鳴らす技法によって作曲を行なっていましたが、ただ一人、クセナキスだけが、そうした音塊を縦横に動かす方法を知っており、音楽に圧倒的な強度を付け加える方法を知っていた。それで十分なはずです。

このように、クセナキスの作品が持つコンセプトは非常に明解です。さらに、そうしたコンセプトによって誰にも真似の出来ない個性的な音楽を書いていることも、少しでもクセナキスの音楽に触れたことがある方なら皆ご存知でしょう。意外に思われるかも知れませんが、このようにコンセプトが明解で、個性的な響きを持つ音楽というものは、思いのほか『わかりやすい』もので、『わかりにくい』という思い込みは、つねに一般的なクラシック音楽作品との距離を測りながら音楽に対峙してしまう観賞の方法に起因していることが多いのです。このことは、クラシック音楽の伝統とは離れたところでクセナキスの音楽に接しているノイズやテクノの愛好者などが、すんなりとクセナキスの音楽に親しんでいることからも分るはずです。

それがわかればあとはCDを聴きまくるだけ。耳慣れない音であるが故に、慣れるまでに時間がかかるかもしれませんが、繰り返し聴いていれば自分なりの楽しみ方が発見できるでしょう( 以下、文体が少々変ります )。

1.クセナキス:アナログテープ音楽推薦盤

Xenakis: Persepolis (Fractal) 画像・リンクなし→×

Persepolis Plus Remixes 1

Persepolis Plus Remixes 1

→×

Xenakis: Electronic Music

Xenakis: Electronic Music

『大量の音を自在に操ることで、たとえようもない強度を持った音楽を生み出した作曲家』。こうしたクセナキスの側面に触れるには、アナログテープ音楽や管弦楽曲といった音数の多い音楽から聴いて行くのが一番。『ペルセポリス』は、20世紀音楽がそのテンションにおいて最高到達点に達した、56分間のパーフェクトストーム。1971年、イランのシーラーズにあるペルセポリス神殿に於いて、8月の暑い最中に日没を待って、明滅する大量のレーザー光線や、大地をタイマツを持って走り回る子供達の姿を伴って初演された。気が遠くなる程の計算を繰り返す中で作曲されている音楽ではあるものの、知性を超越した圧倒的な音の洪水が、クセナキスが何よりも「聴くものの感性を揺り動かす音の力」を純粋に信頼していた作曲家であったことを裏付ける。あまりのオリジナリティと強度故に、クラシック音楽界では鬼子としてしか扱われなかったこの曲は、ノイズやテクノといったジャンルが完全に市民権を得、椎名林檎すらがノイズマシンを操る20世紀最後の年にポピュラー系アンダーグラウンドミュージックのレーベルから復刻された。さらに、ノイズ関連のミュージシャンによってリミックスされている。『ペルセポリス』の作曲から30年、この曲以上のテンションと細部の精緻さを併せ持つ音楽は、その後の現代音楽界にも、クセナキスをこの20年間リスペクトし続けているノイズ界にも存在しない。大里俊晴氏が「ロックが越えるべき指標」としてこの曲を紹介したように、『ペルセポリス』は20世紀が21世紀へと残した宿題として、現代に生を受けた様々なジャンルの音楽家の前に、圧倒的な存在感をもって横たわり続けている。

1950年以後の音楽の展開を概観するに当たって見落としてはならないことは、テクノロジーの進化によって、19世紀的な感性では「演奏不可能」「机上の空論」と考えるしか無かった複雑な書法で書かれた作品をリアリゼーションする方法が、数多く生み出され実用化されたことだろう。このようなテクノロジーの力によって、作曲家は、自身が複雑な書法によって作曲した作品を、実際に聴いてみることが出来るようになり、さらに、その後の作曲についても何らかのフィードバックを得ることが可能になる。故に、そこで試された手法は、もはや「机上の空論」ではあり得ない。自動ピアノを得たナンカロウは、ピアノロールを直接穿孔することによって、極限的なポリリズムを駆使した複雑かつ躍動感のある作品を書き、マグネティック・テープを得たシュトックハウゼンは、その中に音高やその持続、ダイナミクス等を厳密に決定した総音列技法の究極の姿を焼き付けることを可能にさせた。21世紀の今日に至って、シュトックハウゼンは、それらの電子音楽作品によってテクノの先駆者として神格化すらされている。そしてクセナキスは、自身の理論を元に音素材をテープへと定着させ( ミュジーク・コンクレート )、その作曲理論が人間の感性と密接に結び付いた、紛れもない『音楽』を生み出す方法論であることを証明する機会を与えられたのだった。

故に、70年代までのクセナキスのテープ音楽は、彼の音楽的志向をこの上ない形で定着させた作品として、決して無視することが出来ない重要なもの。この分野でのクセナキスの作品は、近年復刻が盛んで、「代表作すらろくにCD化されていない」という状況は、《テープ音楽に関しては》完全に過去のものになった。膨大な音素材を自身の作曲理論に基づいてしかるべき場所へと切り貼りして行き、再生してみて失敗と感じた箇所は新たに作り直す。このような作業によって、クセナキスのアイディアは肉体を得、さらに、食事もろくにとらずに、一日に18時間以上立ち通しで働くことさえ厭わなかった彼の強靭な精神があって初めて、そこに魂を吹き入れるという奇跡が現実のものとなった。マグネティック・テープに切り貼りされた音素材の羅列を、オーケストラをも越える音の饗宴へと成長させていくには、どれ程の手間と情熱が必要だったことだろう。また、その作業の過程は、彼が自身の作曲技法を徹底的に鍛え直す機会でもあった。テープ音楽の制作を通じて検証された技法と耳が、管弦楽曲等、他ジャンルの作品を作曲する際に援用されて行く。楽器の演奏はダメだったクセナキスが、かくも強靭な音楽を生み出せた理由はココにある。

さて、ややこしいことだが、クセナキスの『ペルセポリス』として、現在2種のCDが流通している。一つは、フランスのアンダーグラウンド・ミュージック・レーベルであるFractalによるもの、一つは、アメリカで同じような地位にあるレーベル:Asphodelによるもので、後者には、現代音楽界以外のところで先鋭的な活動を続け、高い評価を受けている9人のミュージシャンによるリミックスがカップリングされている(2枚組)。彼らによるリミックスは、それぞれの作風を反映させつつクセナキスへのオマージュを捧げた素晴らしいもので、彼らの名前を知らない現代音楽リスナーにも強く一聴をお薦めしたい。9人の中には日本人の名前も散見される。90年代に、大編成・大音量ユニット:Ground Zeroを率いて、サンプリングを武器に膨大な音情報で空間を埋め尽くすが如き活動を続け、ユニット解散後は、音響・音色・即興という命題に独自の視点とスタンスをもって取り組む、ターンテーブル奏者・ギタリストの大友良英ダムタイプの音楽担当者として脚光を浴びると同時に、要素を極限まで切りつめた、無菌室の空気のような冷ややかで隙の無い作風を確立し、ミニマル・テクノの新境地を開いた池田亮司。日本のみならず、世界のノイズシーンを代表するユニット:Merzbowを主催し、構築への意志が明確な爆音によって世界を席捲する秋田昌美、等である。2種の『ペルセポリス』本体を聴き比べてみると、Asphodel盤の方が、細部の構造を聴き取りやすいミキシングが行われていると言える。これは、聴衆を取り巻くように配置されたスピーカーを8チャンネルで制御してプレゼンテーションを行う作品を、通常のステレオ録音にリダクションする過程で、ミキシング担当者の音に対する好みが不可避的に介入してしまうが故のことである(故に、 『ペルセポリス』や『エルの伝説』の異盤は、これからも作られていく可能性がある)。

ペルセポリス』以前のテープ音楽はEMF からリリースされたCDに収められ、クセナキスのテープ音楽の歴史的変遷を簡単に眺めることも可能になった。音素材に対する好みの変遷があからさまに表れているが、どれも彼の音楽性によって濾過され、「クセナキスの音楽」以外の何物でも無い作品に仕上がっていることは特筆すべきだろう。大阪万博にて演奏された『ヒビキ・ハナ・マ( 響き・花・間 )』では、尺八や琵琶といった音素材が嵐のように動きまわるクラスターの背後に配置される。突き詰められた前衛がエンターティメントに転化した瞬間の記録。

クセナキスの『エルの伝説』は、彼のアナログテープ音楽の棹尾を飾る作品。8チャンネルテープからステレオCD(2チャンネル)へのリダクションも上手く行っており、録音の状態から言えば、最も満足のいくものの一つである。クセナキスの創作において、聴衆を取り囲むように音を発することは、単なるこけ脅しでも奇をてらっているわけでも無く、1方向だけから発すると複雑さの中に埋もれてしまう音を、周囲にまんべん無く配置することにより知覚し易くする、という非常に音楽的かつ真っ当な意図があることを忘れてはいけない。よって、クセナキスの意図したオリジナルの音響に、誰もが簡単にアクセス可能になった時こそ、クセナキスの音楽の全貌が明らかになると言えるのかも知れない。

2.クセナキス:管弦楽曲推薦盤

Xenakis: Orchestral Works Vol1

Xenakis: Orchestral Works Vol1

Xenakis:Orchestral Works Vol.2

Xenakis:Orchestral Works Vol.2

Xenakis:Orchestral Works Vol.3

Xenakis:Orchestral Works Vol.3

Eonta / Metastasis / Pithoprakta

Eonta / Metastasis / Pithoprakta

  • アーティスト: Iannis Xenakis,Konstantin Simonovic,Maurice Le Roux,Paris Contemporary Music Instrumental Ensemble,French Radio National Orchestra
  • 出版社/メーカー: Le Chant Du Monde Fr
  • 発売日: 1993/11/23
  • メディア: CD
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Xenakis: Orchestral Works

Xenakis: Orchestral Works

→絶版?

録音に恵まれなかったクセナキスの大管弦楽のための作品を系統的に録音する待望のプロジェクトがとうとう開始された。Timpani レーベルにおけるアウトゥーロ・タマヨ指揮:ルクセンブルクフィルハーモニー管弦楽団によるこの試みには、心よりの拍手を送りたい。徹頭徹尾オリジナルな語法に貫かれたクセナキスの音楽( 中でも60年代〜70年代における傑作群は、特に演奏が難しいことが知られている )は、複雑なスコアから奏でる音楽をイメージできる優秀な指揮者と、見知らぬ語法によってかかれた音楽を十分手中に収めるまで、練習を繰り返す時間をとることが出来るオーケストラによって演奏される時、はじめてその魅力を明らかにすることが出来る。

第一弾に収録された作品は、クセナキス管弦楽作品としては「中の上」から「下」といったレベルのものであるが、旋法的な比較的わかりやすい( =伝統的なクラシック音楽との距離がそう大きくない )作品が集められており、彼の管弦楽曲への入門として最適のCDである。『アイス』における打楽器の連打とオーケストラの絡み、あるいは『トレーセズ』での重厚なリズムなどは、例えば、松村禎三作品に親しんでいる人なら何の違和感も無く聴けるはず。それに慣れれば、グリッサンドでの力強い音の推移が特徴的な『ヌーメナ』が楽しめるようになるのも時間の問題だろう。また、『ローアイ』のような音の動きが少なく、分厚く堆積した音塊を聴かす晩年の作品も、音楽として面白いかはともかく、演奏は見事なものだ。

そして、第二弾。このCDにこそ、クセナキス管弦楽作品が持つ本当の強度を語るに足る作品が収録されている。旋法的なフレーズを不協和な音程関係で重ねた「音のカーテン」が形成される中を、互いにテンポの違う暴力的なオスティナートを交錯させる『ジョンシェ( イグサの茂み )』。また、1971年に作曲されたバレエ音楽の極北:『アンティクトン』には、金管楽器がフォルティシモで打ち込むパルス、木管楽器の特殊奏法が表出させる原初的な雰囲気、延々続くべきオスティナートを刹那のうちに凝縮したかのような打楽器による叩き込み、そして弦楽器が創り出す縦横無尽に動き廻るクラスター。こうしたクセナキスの手の内が余すところ無く詰め込まれている。それらの音楽要素が、多層的な構造をもって精緻に組み立てられている様を、見事に表現したタマヨとルクセンブルクフィルの演奏も素晴らしい。驚くべきことは、そうした精緻な演奏がオーケストラの限界ともいうべき大音量でなされている点だろう。ファーニホウの作品がそうであるように、クセナキスの作品もまた、奏者が余力を残して演奏に当たった瞬間に「クセナキス作品」としての表出力を失ってしまう。ゆえに( それが編集等の録音技術の賜であったとしても )、演奏者が自らの限界点を刻印した、このCDでの演奏は限りなく貴重なのだ。

第三弾には、ソリストに日本人ピアニスト:大井浩明を迎え、クセナキス最初の協奏曲である『シナファイ』が収録されることとなった。この『シナファイ』のソロ・パートは、2手での演奏を想定しながらも10段譜で記譜されており、そこでは、最大16声部にもなる音の流れを、技術的極限ともいえる同音連打で弾くことが要求される。しかも、各声部の同音連打は、各々違う速さで弾くように指示され、その上でピアニストは、拡大3管編成のオーケストラと大音量で渡り合うことを強いられるのだ。カデンツァ的な部分では、延々と続く同音連打からは解放されるものの、ソリストは10段譜の1段毎に違ったリズムパターンを持つポリリズム的難所(3連符、4連符、5連符、それぞれを基本としたリズムを並列に演奏し、それぞれのリズムが互いに生成する齟齬を聴くものに知覚させる)に、たった一人で向き合わなくてはならない。大井は、この至難なソロ・パートに対し、力が及ぶ限り楽譜を尊重した誠実なアプローチで立ち向かい、結果、この協奏曲が、20世紀で最も難しい作品のうちの一つであるだけでなく、独創的かつ暴力的で、それでいて独自の美しさを持つ作品であることを、見事に証明し得た。同音連打で作り出されるピアノのクラスターは、瞬間ごとにその姿を変えつつオーケストラと協同し、カデンツァで楔のように打ち込まれるポリリズムは、最も優れたガムラン・アンサンブルがもたらすような、日常を超越した陶酔へと聴くものを招き入れる。そして終盤、全オーケストラによるクレッシェンドを経て、それまで息を潜めていた3人の打楽器奏者とピアニストによるアンサンブルが、まるで爆発するかのようなクライマックスを築き、音楽は突然に終わる。これは、感情や論理で理解する音楽では無い。より始源的なもの、あるいは中枢神経へと直接作用する祝祭である。このCDでは、その他に、弦楽器のグリッサンド金管楽器が発するパルス的な音形を対照させた『エリダノス』。旋法の中で不協和な音を厚く重ね、大地に根をおろす大樹の如き重量感を表現した『ホロス』『キアニア』とが、作品に相応しいスケールをもって収録されている。

第4弾において特筆すべきは、クセナキスの第2ピアノ協奏曲:「エリフソン」の世界初録音であろう(ちなみに、第3ピアノ協奏曲である「ケクロプス」には、初演者であるロジャー・ウッドワードがアバドと組んで録音した盤が存在する)。 ピアノ譜が10段で記譜されていることのインパクトの強さと、あまりに過酷な同音連打にピアニストが指先より出血するという、いささか誇張混じりの伝説によって、「シナファイ」は史上最難のピアノ協奏曲としてフジテレビのワイドショーにすら取り上げられたのであった、が、独奏部の至難さにおいては、むしろここに収録された「エリフソン」の方が上であろうと思う(入り組んだ連符の処理と、頻出する跳躍が大変)。 そうした非常識に難しいソロパートに真摯に取り組み、誤魔化しのない演奏を聴かせた大井浩明には最高の賞賛が与えられるべきだが、オーケストラパートの演奏の驚くべき充実も特筆されるべきであろう。この4回にわたる録音において、ルクセンブルクのマイナーオーケストラは、クセナキス演奏のツボを確実に探り当てているようだ。角の取れた「クラシック的表現」へと退行することなく、オーケストラの中を対流する息の長いグリッサンドが、まるでクセナキスの傑作テープ音楽のように蠢く姿に戦慄する。 また、クセナキス吹奏楽曲として知られる「アクラタ」は、管楽器が発するパルス音のみで構成された、クセナキスらしく徹底した作品である。この曲の演奏も既存盤(mode)での印象を大きく刷新する素晴らしいもの。(この段落のみ増補)。

タマヨのシリーズに代表される新録音だけでなく、旧録音の復刻もまた、クセナキスファンから熱い注目を浴びている。Le Chant du Mondeからリリースされていた『エオンタ』、『メタスタシス』、『ピソプラクタ』を収録した一枚は、60年代のフランスにおいて、作曲家クセナキスに対する評価を決定付けた名盤とされている。ただし、ピアノと金管5重奏(トランペット:2、トロンボーン:3)とによる、技術的・音域的限界を駆使しての決闘ともいえる『エオンタ』では、初演者:高橋悠治のピアノも現在の耳で聴けば不明確な箇所が多く、金管楽器の線の細さも気になり、この曲については、この録音よりも高橋アキ&ASKOアンサンブル盤(ATTACCA)を強く推したい。『メタスタシス』、『ピソプラクタ』の録音は未だ貴重。これらの作品では、弦楽器のグリッサンド音形を集積することによって、クラスターが縦横に動かされて行く。クセナキスはそのデビュー作でもって、かつて存在したいかなる音楽とも違った作品を創造してしまった。このCDにおいては、音楽各所で打ち鳴らされるウッドブロックの音も生々しく捉えた、素晴らしい録音も特筆されるべきだろう。

最後は、col legno レーベルが系統的にリリースしている、ドナウエッシンゲン音楽祭やメッス音楽祭の記録からピックアップされたコンピ盤。大管弦楽のための『ジェンシェ』が収録されている有難みは、タマヨによる素晴らしい演奏がリリースされたことで減じてしまったが、ロスバウトによる『メタスタシス』の録音が収録されているのが目玉。室内楽曲でも、『ンシマ』のようなキラリと光る秀作が収録されているのが嬉しい。金管楽器が奏でるパルス的な音形の重なりが、力強い《音楽》となって流れて行く様を目のあたりにすることが出来る。こうした作品のコンセプトは『クセナキス吹奏楽曲』として知られる『アクラタ』と共通するものだ。

3.クセナキス:合唱音楽推薦盤

ヤニス・クセナキス;「20世紀の音楽シリーズ」 (Iannis Xenakis: Oresteia)

ヤニス・クセナキス;「20世紀の音楽シリーズ」 (Iannis Xenakis: Oresteia)

Colone Nuits

Colone Nuits

意外なことかも知れないが、ギリシャ時代のクセナキスは、ギリシャの民謡に題材をとった素朴な作品を作曲していたと言われる( それらの作品は現在では殆ど破棄されているようだが )。第2次大戦中に対ファシズムレジスタンスとして働き、顔の左半分の輪郭が変わる程の怪我を負って左目を失ったクセナキスは、その後捕らえられ死刑判決まで受け、フランスへと亡命する。戦争がクセナキスにかのような苛烈な運命を与えなければ、そして亡命先のフランスでメシアンに師事することが無ければ、彼は「ギリシャ民族派」的スタンスを保ちながら作曲を続けたのかも知れない。「君は数学を知っている。なぜ、それを作曲に応用しないんだ?」とクセナキスへと問いかけ、彼が数学的な方法論にて「前衛の寵児」になるきっかけを作ったのがメシアンだったし、レジスタンスとしての経験から、ナチに対抗する大規模なデモや、闘う人々のスローガンを叫ぶ声、そして叫びに、リズミカルなパターンがあり、ある種「音楽的」にすら聞こえることを知っていたが故に、彼は数学的な方法論で書かれたクラスターに比類の無い強度をもたらすことが出来たのだった( 彼がそうしたデモの一員として、マシンガンを撃つ軍隊と衝突することも日常茶飯事だった。彼の音楽の強度は、彼の人生の強度でもあろう )。では、クセナキスが20代の頃まで持っていたはずの「ギリシャ民族派」的な顔は、その後の彼の創作に何の影響ももたらしていないのであろうか?

クセナキスが作曲した音楽は、統計理論に基づいた数学的な理論で書かれた曲であるから当然無調であろう、とか、作品の全体に渡って乱数を使って音が選択されている、とか考えている向きも多いようであるが、それは彼の作品を知らないが故の誤解である。コンピュータの作曲への援用には、あくまでの最初に美学的で概念的なアイディアが必要で、その上でコンピュータを使うのでなければ無駄である、とクセナキス自身も言い切っている。そもそもコンピュータとは、人間が何をやるかを指示しなければ何も出来ない機械であり、その指示の内容が、使う人間の知性や感性を反映し、成される仕事の優劣を決める機械であることを忘れるべきではない。だからこそ、「クセナキスの時代よりも格段に進歩した現代のパソコンを使えば、簡単にクセナキスの業績を乗り越えられる」という類の、馬鹿げた主張は放っておくに限る。えてして、そう主張する人々は、クセナキスの作品にギリシャの旋法に基づく作品が少なくないことすら知らなかったりするものだ。

そのような、クセナキスが持つギリシャの旋法への愛情を知るには、彼の合唱関連の音楽を聴くのが一番。管楽器の特殊奏法が作る原初的な雰囲気が旋法的な合唱に加わる時、「ホラー映画やSF映画のBGM にぴったり」といった現代音楽に対する紋切り型な印象を喰い破る魅力的な音楽が現出する。チェコの亡命作家:ミラン・クンデラは、その著書の中でクセナキス( とヴァレーズ )の音楽を、「人間達の通過以前もしくは以後の世界の、やさしくも非人間的な美を語ってくれた」と称賛したものだが、ここに聴くことが出来るクセナキスの作品は、作曲家:クセナキスのあまりに人間的な側面を露にしている。そしてそれらは、死刑判決を受け、政治亡命することになったクセナキスが、自身の作品をもって為した、母国の文化と風土への称賛でもある。

『オレスティア』は、12人の器楽奏者( 9人の管楽器奏者、2人の打楽器奏者、1人のチェロ奏者 )と、児童合唱、最低18人の混声合唱のために書かれた組曲。この編成故に、「クセナキス吹奏楽曲」としての観賞も可能であろう。バリトンと打楽器による第2楽章は、後に作曲され加えられたもので( 独立の作品として演奏されることもある )、打楽器アンサンブルのためにも優れた作品を残したクセナキスの打楽器書法を堪能できる。

もう一枚のCDは、クセナキスの合唱曲を5曲収録したもの。政治犯として捕らえられた人々への献辞で有名な無伴奏合唱曲『夜』は、クセナキスの政治的立場を明確にした作品としても重要であるが、このような複数のグリッサンドを際限なく重ねて行き、全体としての「うねり」を生み出す手法で書かれた曲なら合唱曲よりも弦楽のための作品がお薦めである。よって、このCDでのお薦めは、CDの冒頭と最後に収録されたアンサンブルと合唱のための2曲。クセナキスの作品が持つ本当の力強さを実感するには力不足かも知れないが、クセナキスの美学が聴き手に媚びること無く、わかりやすい形で結晶しているこれらの作品は、クラシックファンにとっては特に貴重だろう。

4.クセナキス:室内楽曲・ピアノ曲推薦盤

Xenakis: Anaktoria, Oophaa, Charisma, Mists, Mikka

Xenakis: Anaktoria, Oophaa, Charisma, Mists, Mikka "S", Morsima-Amorsima

→絶版

Chamber Music 1955-1990

Chamber Music 1955-1990

Xenakis: Works for Piano

Xenakis: Works for Piano

20世紀とは、西洋音楽が新しいアイディアを求め、非西洋へと積極的に接近した時代でもあった。多くの作曲家が非西洋の音楽から大きなインパクトを受け、それを自作へと反映させ、音楽史を刷新するエポックメイキングな作品を発表してきた。少々思い出しただけでも、ガムラン音楽に出会い「2台のピアノのための協奏曲」にガムラン的な音型を導入したプーランクインド音楽のリズムから不可逆リズム等のアイディアを得たメシアン。アフリカ打楽器音楽を学んだ経験をミニマルにおける反復の方法へと昇華させたライヒ。そういった例を挙げることが出来よう。人によっては、ガムランからブーレーズの『主のない槌』を、インドからホルストを、アフリカ打楽器音楽からリゲティを連想するかも知れない。非西洋が西洋音楽へともたらした影響は、かように大きく広範囲にわたっている。また、非西洋の音楽家が自国の音楽要素と西洋の音楽語法を結びつけ、「西洋音楽史」へと参入していったことも重要だろう。

さて、西欧クラシック音楽の歴史とは、奏でられる音から極力雑音を排除しようと努めて来た歴史でもあった。ノイズの無いクリアな音、というものが、かくも重要視される音楽というのは、実は世界にはそう多くは無く、西欧クラシック音楽はそうした希少なジャンルのうちの一つだと言えるだろう( その原因の一つとして、音楽が演奏される場、言い替えれば演奏会場の残響の長さを指摘することが可能であろう )。アジア・アフリカ圏の民俗音楽では、音に混入されるノイズの割合を変えて、奏でられる音楽に多様な表情を加える技法が確立されており、それが音楽の印象に本質的な影響を与えている場合がある。クラシック音楽以上にアフリカの民俗音楽から直接的な影響を受けているジャズを例に見てもそれは明らかで、ジャズの奏者の中には、マウスピースやリードに特別な仕掛けをしてまで、ノイズを自身の表現に結びつけようと腐心している奏者も存在するのだ( これはクラシックの奏者が不用意に演奏するポピュラー音楽が、概して、オリジナルに比べると、あまりに詰まらなく、かつ腹立たしい演奏にしかならない理由にもなっている )。

20世紀クラシック音楽の特色の一つである、非西欧音楽からの影響というものは、もちろん、音色に関しても明らかに存在し、特殊奏法や音域的限界を駆使したノイジーな音を加えることで、楽曲に原初的な強度を加えていった作曲家も存在する。1913年に初演されたストラヴィンスキーの『春の祭典』では、トランペットよりもピッコロトランペットが、通常のクラリネットよりもD 管の小クラリネットが活躍する。冒頭のファゴットのソロからして、当時の常識ではソロで使うことなど考えられなかったような音域だ。だが、普段使われない音域を無理矢理駆使するオーケストラから、ロシアの春の暴力的な美しさが立ち昇る。そうした試みをさらに推し進めるとどうなるか?特殊奏法でむき出しになった音を精緻に構成していくことで、聴く人を原初的な興奮にたたき込める作曲家がいたとしたら?その答えはクセナキスの作品の中にある。「楽音へのノイズの混入が音楽へともたらす強度」。クセナキス室内楽曲は、これを実感する最高のサンプルとなるはずだ。

では、CDの紹介に移ろう。まず、Accord盤。このCDには、『アナクトリア』『モルシマ=アモルシマ』が収録されているのが目玉。特に、『アナクトリア』:1969年に初演されたこの音楽史上最強の8重奏曲こそ、特殊奏法に満ちた原初的な音の饗宴として第1に聴くべきものであろう。初演は、このCDでの演奏と同様、パリ8重奏団によってなされているが、彼等によれば、『アナクトリア』の演奏では常に技術的音域的限界に挑戦しなくてはならないために、奏者は、この曲を演奏した後には、もはや何も演奏が出来ないところまで( 物理的に )追い込まれてしまうという。奏者の技術と献身に正比例した演奏効果を与えるだけのキャパシティを持つこの曲が、より演奏されるよう期待せずにはいられない。『モルシマ=アモルシマ』では、弦楽器によるグリッサンド音型と、ピアノによる点描的な音との対比が楽しい。

アルディッティ弦楽4重奏団、そしてクロード・エルフェ。どちらも、クセナキスの楽曲演奏に多大な貢献をした奏者である。この両者が組んで録音された室内楽曲集もまた、クセナキスを語る際に忘れるわけにはいかないものだろう。弦楽4重奏曲:『テトラス』や『st/4』、チェロ独奏曲:『ノモス・アルファ』のような傑作がキレの良い演奏で収録されている。クセナキス作品の演奏に当たっては、この「キレの良さ」というのが重要で、これが無ければ作品の素晴らしさを実感出来る演奏にはなり得ない。クセナキスの作品が、作曲者の類稀なリズム感に基づいて構成されていることが、こうした事実からも良くわかるはず。ただ、エルフェのピアノは高齢ゆえにかなりガタがきていて、キレの良さにおいても正確さにおいてもイマイチであることは申し添えておかなくてはならないだろう。

なら、クセナキスピアノ曲を聴くのならどのCDがお薦めか?それは、modeからリリースされた高橋アキによるものだと断言できる。多少遅目のテンポをとりながらも、楽譜通りに誠実に弾き込むことを意図した演奏で、それ故に奇数連符の錯綜する箇所では複数のテンポが錯綜するかのような感覚を味わうことが出来る。それは、クセナキスが書いた複雑な譜面が、こけ脅しのものではなく、誠実な表現者の手にかかれば聴き手にも認識可能な「音の必然性」を持つことの証明でもある。『ヘルマ』『エヴリアリ』( この曲には、武満らと訪れたバリ島での音楽経験が反映している。クセナキスもまた、ガムランに魅せられ自身の作品の中のその魅力を結晶化しようと試みた作曲家の一人だった )といったクセナキスの代表的な独奏曲の魅力もさることながら、『パリンプセスト』で聴ける落ち着いた表現がもたらす力強さもまた素晴らしい。

追記:

クセナキスの弦楽4重奏曲:『テトラス』1曲に限れば、ベートーヴェンの『大フーガ』やナンカロウ等とともに収録されたGramavision 盤が、骨太な表現が作品の価値を余すところなく伝える名演として、上で紹介したmontaigne 盤よりもお薦めである。(絶版)

また、コントラバス独奏曲の傑作:『セラプス』は、溝入敬三による素晴らしい演奏がALM (コジマ録音)よりリリースされている。高橋アキによる『エヴリアリ』の旧録音( 『季節外れのバレンタイン』(ミュージカル・ノート)に収録)とともに、日本人によるクセナキス演奏の極限を収録したCDとしてお薦めである。

コントラバス颱風/溝入敬三

コントラバス颱風/溝入敬三