1.クセナキス:アナログテープ音楽推薦盤

Xenakis: Persepolis (Fractal) 画像・リンクなし→×

Persepolis Plus Remixes 1

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Xenakis: Electronic Music

Xenakis: Electronic Music

『大量の音を自在に操ることで、たとえようもない強度を持った音楽を生み出した作曲家』。こうしたクセナキスの側面に触れるには、アナログテープ音楽や管弦楽曲といった音数の多い音楽から聴いて行くのが一番。『ペルセポリス』は、20世紀音楽がそのテンションにおいて最高到達点に達した、56分間のパーフェクトストーム。1971年、イランのシーラーズにあるペルセポリス神殿に於いて、8月の暑い最中に日没を待って、明滅する大量のレーザー光線や、大地をタイマツを持って走り回る子供達の姿を伴って初演された。気が遠くなる程の計算を繰り返す中で作曲されている音楽ではあるものの、知性を超越した圧倒的な音の洪水が、クセナキスが何よりも「聴くものの感性を揺り動かす音の力」を純粋に信頼していた作曲家であったことを裏付ける。あまりのオリジナリティと強度故に、クラシック音楽界では鬼子としてしか扱われなかったこの曲は、ノイズやテクノといったジャンルが完全に市民権を得、椎名林檎すらがノイズマシンを操る20世紀最後の年にポピュラー系アンダーグラウンドミュージックのレーベルから復刻された。さらに、ノイズ関連のミュージシャンによってリミックスされている。『ペルセポリス』の作曲から30年、この曲以上のテンションと細部の精緻さを併せ持つ音楽は、その後の現代音楽界にも、クセナキスをこの20年間リスペクトし続けているノイズ界にも存在しない。大里俊晴氏が「ロックが越えるべき指標」としてこの曲を紹介したように、『ペルセポリス』は20世紀が21世紀へと残した宿題として、現代に生を受けた様々なジャンルの音楽家の前に、圧倒的な存在感をもって横たわり続けている。

1950年以後の音楽の展開を概観するに当たって見落としてはならないことは、テクノロジーの進化によって、19世紀的な感性では「演奏不可能」「机上の空論」と考えるしか無かった複雑な書法で書かれた作品をリアリゼーションする方法が、数多く生み出され実用化されたことだろう。このようなテクノロジーの力によって、作曲家は、自身が複雑な書法によって作曲した作品を、実際に聴いてみることが出来るようになり、さらに、その後の作曲についても何らかのフィードバックを得ることが可能になる。故に、そこで試された手法は、もはや「机上の空論」ではあり得ない。自動ピアノを得たナンカロウは、ピアノロールを直接穿孔することによって、極限的なポリリズムを駆使した複雑かつ躍動感のある作品を書き、マグネティック・テープを得たシュトックハウゼンは、その中に音高やその持続、ダイナミクス等を厳密に決定した総音列技法の究極の姿を焼き付けることを可能にさせた。21世紀の今日に至って、シュトックハウゼンは、それらの電子音楽作品によってテクノの先駆者として神格化すらされている。そしてクセナキスは、自身の理論を元に音素材をテープへと定着させ( ミュジーク・コンクレート )、その作曲理論が人間の感性と密接に結び付いた、紛れもない『音楽』を生み出す方法論であることを証明する機会を与えられたのだった。

故に、70年代までのクセナキスのテープ音楽は、彼の音楽的志向をこの上ない形で定着させた作品として、決して無視することが出来ない重要なもの。この分野でのクセナキスの作品は、近年復刻が盛んで、「代表作すらろくにCD化されていない」という状況は、《テープ音楽に関しては》完全に過去のものになった。膨大な音素材を自身の作曲理論に基づいてしかるべき場所へと切り貼りして行き、再生してみて失敗と感じた箇所は新たに作り直す。このような作業によって、クセナキスのアイディアは肉体を得、さらに、食事もろくにとらずに、一日に18時間以上立ち通しで働くことさえ厭わなかった彼の強靭な精神があって初めて、そこに魂を吹き入れるという奇跡が現実のものとなった。マグネティック・テープに切り貼りされた音素材の羅列を、オーケストラをも越える音の饗宴へと成長させていくには、どれ程の手間と情熱が必要だったことだろう。また、その作業の過程は、彼が自身の作曲技法を徹底的に鍛え直す機会でもあった。テープ音楽の制作を通じて検証された技法と耳が、管弦楽曲等、他ジャンルの作品を作曲する際に援用されて行く。楽器の演奏はダメだったクセナキスが、かくも強靭な音楽を生み出せた理由はココにある。

さて、ややこしいことだが、クセナキスの『ペルセポリス』として、現在2種のCDが流通している。一つは、フランスのアンダーグラウンド・ミュージック・レーベルであるFractalによるもの、一つは、アメリカで同じような地位にあるレーベル:Asphodelによるもので、後者には、現代音楽界以外のところで先鋭的な活動を続け、高い評価を受けている9人のミュージシャンによるリミックスがカップリングされている(2枚組)。彼らによるリミックスは、それぞれの作風を反映させつつクセナキスへのオマージュを捧げた素晴らしいもので、彼らの名前を知らない現代音楽リスナーにも強く一聴をお薦めしたい。9人の中には日本人の名前も散見される。90年代に、大編成・大音量ユニット:Ground Zeroを率いて、サンプリングを武器に膨大な音情報で空間を埋め尽くすが如き活動を続け、ユニット解散後は、音響・音色・即興という命題に独自の視点とスタンスをもって取り組む、ターンテーブル奏者・ギタリストの大友良英ダムタイプの音楽担当者として脚光を浴びると同時に、要素を極限まで切りつめた、無菌室の空気のような冷ややかで隙の無い作風を確立し、ミニマル・テクノの新境地を開いた池田亮司。日本のみならず、世界のノイズシーンを代表するユニット:Merzbowを主催し、構築への意志が明確な爆音によって世界を席捲する秋田昌美、等である。2種の『ペルセポリス』本体を聴き比べてみると、Asphodel盤の方が、細部の構造を聴き取りやすいミキシングが行われていると言える。これは、聴衆を取り巻くように配置されたスピーカーを8チャンネルで制御してプレゼンテーションを行う作品を、通常のステレオ録音にリダクションする過程で、ミキシング担当者の音に対する好みが不可避的に介入してしまうが故のことである(故に、 『ペルセポリス』や『エルの伝説』の異盤は、これからも作られていく可能性がある)。

ペルセポリス』以前のテープ音楽はEMF からリリースされたCDに収められ、クセナキスのテープ音楽の歴史的変遷を簡単に眺めることも可能になった。音素材に対する好みの変遷があからさまに表れているが、どれも彼の音楽性によって濾過され、「クセナキスの音楽」以外の何物でも無い作品に仕上がっていることは特筆すべきだろう。大阪万博にて演奏された『ヒビキ・ハナ・マ( 響き・花・間 )』では、尺八や琵琶といった音素材が嵐のように動きまわるクラスターの背後に配置される。突き詰められた前衛がエンターティメントに転化した瞬間の記録。

クセナキスの『エルの伝説』は、彼のアナログテープ音楽の棹尾を飾る作品。8チャンネルテープからステレオCD(2チャンネル)へのリダクションも上手く行っており、録音の状態から言えば、最も満足のいくものの一つである。クセナキスの創作において、聴衆を取り囲むように音を発することは、単なるこけ脅しでも奇をてらっているわけでも無く、1方向だけから発すると複雑さの中に埋もれてしまう音を、周囲にまんべん無く配置することにより知覚し易くする、という非常に音楽的かつ真っ当な意図があることを忘れてはいけない。よって、クセナキスの意図したオリジナルの音響に、誰もが簡単にアクセス可能になった時こそ、クセナキスの音楽の全貌が明らかになると言えるのかも知れない。