第1回佼成ウインドオーケストラ作曲コンクール

26日 14:30
東京芸術劇場大ホール

 今夏の芥川作曲賞以後、作曲賞と名のつくものには極力出かけてみることにしている。プロフェッショナルの吹奏楽団として世界的にも名高い佼成ウィンドオーケストラが公募し、三善晃西村朗、北爪道夫、松下功といった面々が審査するわけだから、そこらの吹奏楽作曲コンペとは明確に違った結果が出るだろうと期待して行ったという次第。

世界各国から80余りの作品が寄せられ、一次審査(譜面審査)で8作品に、二次審査(非公開での演奏審査)で4作品へと絞られた。

ファイナリストは

ホセ=スニョール・オリオラ(スペイン)「室内交響曲 第1番」
木村 政巳(日本)「見えない都市」
バーナビー・ホーリントン(イギリス)「コン・ブリオ」
ジョン・ウィークス(イギリス)「プロセッション」 の4名。

開会に先立ち、なぜかクリフトン・ウィリアムズの「ファンファーレとアレグロ」が演奏される。全米吹奏楽指導者協会が出すオストワルド賞の初代受賞曲を演奏して、コンクール成功のゲンを担ぎたかったのでは、という声もあったが、志が低すぎやしないだろうか?「ファンファーレとアレグロ」は吹奏楽曲としては名曲かも知れないが、それはあくまでも限られたジャンルの中での話。このコンクールが求めるのは、そういった「吹奏楽曲としては」的な留保を超えて聴かれる価値のある作品なんだと思ったが。残響の中で迷子になっているかのような演奏にも閉口し、演奏しない方が良かったのではないか、というのが正直な感想。

ファイナリストとなった4曲は、(作曲賞とは名ばかりの)朝日作曲賞受賞曲※の平均レベルと比べるなら、遥かに上質な作品だったが、日本音楽コンクール作曲部門の最終選考に残ったのがこの4曲だったとしたら、「不作」と断じて然るべきラインナップといえる。特に前半の2曲は論外。開演前に見かけた三輪眞弘氏の姿が、休憩時には消えていたのも無理の無いことだろう。会場で会った何人かの作曲家に、「あなたも出品すれば良いのに。このレベルなら苦もなく一位でしょう」と言ったような。

※毎年受賞曲が出ていますが、「作曲賞」の冠に相応しい作品は5年に1度くらいの頻度で出現するくらいでしょうか。MIDIでのシミュレーション結果をそのまま楽譜にしたような作品さえもが受賞する現状では、冠を外して普通の「課題曲公募」へと戻した方が良いのでは?

オリエラの作品からは、プロコフィエフの第五交響曲そっくりの箇所すら聴き取れる始末で、無駄な重ねが多いがための響きの厚ぼったさは致命的、というか、アマチュアを想定してスコア書いてはいないだろうか?2楽章にはヴェルディの「ナブッコ」のようなフレーズもあり、既成曲からの影響がこう未消化なまま散見されるようでは高評価は得られないだろう。

木村作品も日本交響楽財団作曲賞ノミネートレベルで、吹奏楽という音響体に対する認識が、従来の「吹奏楽作曲家」のそれと大して変わることがない。しかしながら、オリエラ作品に比べると楽器法が洗練されてはいたのは確か。

ホーリントンの作品は、ブーレーズの作曲技法を意図的に誤用すること多調的な響きを創出し、これをさらにジャズへと結びつけるもの。響きの彫琢も細やかで、コンセプト・筆力ともに今回の4曲では図抜けていたが、これにしてもバートウィッスルの作品とどれほどの差があるのか。

ウィークス作品は4曲の中では最も小さな編成が功を奏しクリアな響きを聴かせたが、曲の展開に関してそんなに面白みがあるわけではない。イングリッシュホルンの独奏との対比を狙って立ち代り繰り出されるテュッティの楽想/響きが、一部を除いてさして魅力的でないのがその理由。

審査の発表が随分と遅れたようだが、

第1位:なし
第2位:ホーリントン
第3位:ウィークス、木村

という結果へと落ち着く。木村が3位というのも微妙だが、亀田がランダエダに勝利したことに比べればフェアかも。ホーリントン作品は来春の佼成定期で再演され、新作の委嘱も行われるのだとか。イギリスから呼ばれた客員審査員:エドワード・グレグソンが選ぶ審査員特別賞は木村へ、佼成ウィンド団員が選ぶフェネル賞はオリエラへ。

1位を出さなかった審査員の見識を高く評価しつつ帰路へとつく。しかしながら、グレグソンのような吹奏楽近辺でのみ名前を知られる作曲家をわざわざイギリスから招聘したのは何故なのか。氏の名前が審査員に加えられたことで、かえって優秀な作曲家に応募を避けさせることになると思うのだが。